ゲーム今昔

TVゲームの昔話やドラクエウォーク旅

1978年補足:スペースインベーダー伝説「業界編」

1978年の補足としてスペースインベーダーブームをまとめます。昔ブームだった、では到底終わらせられない位にこのタイトルがその後のTVゲーム業界に与えた影響は大きく、様々です。

■誕生から発売まで
1978年、この年は株式会社タイトー創立25周年でもありました。そんな理由もあって、この年の6月に行われたタイトーの新作を発表するプライベートショーは例年よりも多くの新作ゲームが展示され、もちろん 『スペースインベーダー』 も出展されていました。その中でも特に 『スペースインベーダー』 は他のゲームよりもオペレーター 問屋さん から熱い注目を浴びていました。しかしそれは

『こんなゲームが売れる訳が無い』

という悪い意味での注目でした。なぜそんなにも評判が悪かったのかそれはこのゲームが今までのゲームには無い、余りに個性的な要素を持っていたからです。ちなみに 『スペースインベーダー』 の遊び方は

①横に匹・縦に列の計匹で並ぶインベーダー 侵略者 が左右に移動しながら徐々に降下して来る

②それを画面下方に位置する砲台を左右に操作してインベーダーを匹ずつ倒して行き、全てのインベーダーを倒すとステージクリア
という物でした。

しかし、今までやられるのをずっと待っているだけだったブロックが 『敵』 と言う意識を明確に示し、さらにプレイヤーに向かって弾まで撃って『攻撃して来る』なんて要素はそれまでのどんなテレビゲームにも無かったのです。

『お金を頂いているんですから楽しい気分で遊んでください♪』
というこれまでの接待的なゲームから、
『やられたらとっととお家に帰ってね♪♪』
という楽しさどころか 『強烈な敗北感』をプレイヤーに突きつける挑戦的な内容で、こちらが何もしないと敵が撃って来る弾に当たって分と待たずにゲーム終了となる為に、『お客様を攻撃して怒らせてどうするんだ!!』となってしまったのです。

しかしそんなゲーム機を購入してもらう問屋さん達の批判に対して、製作者の西角友宏(にしかどともひろ)氏は『難しくて何がいけないんですか』と、批判を真っ向から受け止めました。上司の

『作り直せ』

という命令にも

『できません』

 と頑なに自分の主張を貫きました。当時のご時世で上司の命令に反抗する西角氏の態度はとんでもない事だったでしょうが、しかしこの時
『周囲に味方がいなくても自分の作品にこだわりを持つ』
という信念を一人のクリエイターが貫いた瞬間、現在でも語り継がれる
『最初で最後の二度と起こらない奇跡』
が始まります。
実はタイトーには『ブルーシャーク』というインベーダーと同時発売の新製品がありました。

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『攻撃して来ない敵を制限時間内により多く撃つ』という従来通りの接待ゲームで、こちらの方が人気が出るという意見が社内では圧倒的でした。その為 『ブルーシャーク』 の方が積極的に営業展開され、スペースインベーダーは在庫処分的な扱いで発売されました。

■侵略開始

そんな波乱のプライベートショーから1ヵ月後の7月に 『アップライトタイプ』 が出荷されたのに続き、8月には『テーブルタイプ』 のスペースインベーダーが発売されます。すると多くの人間の予想を裏切り、スペースインベーダーのインカム収入が聞いた事の無い数字を叩き出していったのです。

スペースインベーダーの出荷価格はモノクロ白黒定価が当時46万円、カラータイプは58万円でした。当時の大卒平均初任給が約10万5千円だったのを考えると決して安くはありませんでしたが、この 『スペースインベーダー』 1台が1日に稼ぐ売上げがなんと10万円。1日の稼ぎが大卒社員の月給以上という、何かがおかしい売り上げを稼ぎ出すのです。つまり1週間稼動させれば元が取れて後は店の儲けになるのです。

そのため発売からわずかヶ月後には注文が殺到するのですが、元々在庫処分扱いで大量生産していなかった製品の在庫などあるはずがなく、すぐに生産が間に合わなくなりました。それでは『スペースインベーダー』の伝説をいくつかご紹介します。

『伝説その1』
タイトー本社が永田町のすぐ近くだった為に、議員バッジをつけた先生方がお忍びで現れて『知人の業者にゲーム機を回してもらえないかね』と交渉に来るのを断るのが大変だった。

『伝説その2』
茶店に納品して20分後に『ゲームがこわれた』と電話があった。行って見ると100円玉がコインケースから溢れていた。その後筐体内部コインボックスの大きさを4倍に拡張

『伝説その3』
漫画に出てくるドル袋の様な100円玉一杯の袋を1日に何十袋と銀行に持って行く為に納金担当の社員に腰痛が多発。その結果トラック用昇降エレベーターを開発。

『伝説その4』
100円玉袋の回収がバンタイプの車では間に合わないので4トントラックで巡回していた。しかし100円玉袋の山は4トントラックにも 『勝利』 した。トラックのサスペンションがひん曲がって車が動かなくなる故障が頻発した。

『伝説その5』
売上の100円玉は毎日集められて近くの銀行に持ち込まれるが、ゲームセンターから毎日持ち込まれる膨大な数の100円玉の処理に銀行が悲鳴を上げて引取りを断られる例が各地で起こった。この為日本全国で100円玉が不足し、この年の100円硬貨の発行額が増えた。銀行が受け取りを拒否したのが直接の原因ですが、インベーダーの流行がその経緯にあるので伝説に入れておきます

『西角氏伝説①』
業務用 「スペースインベーダー」 発売後、西角氏は家庭用ゲーム機の試作機を自ら開発し、その自作ゲーム機上で動く「家庭用スペースインベーダー」 を完成させていた。なんとそのゲーム機には電話回線を使ったゲーム配信機能も考慮されていた。当時の営業担当から販売許可が下りず終了

『西角氏伝説②』
開発中、西角氏はキャラクターデザイン用にブラウン管をペン型のデバイスで直接タッチして描画する機械を発明した。実はこれが世界初の実用コンピューターペンデバイスと言われているが、『自分が使いやすい様に作っただけ』という技術者精神から西角氏はこの技術の特許を取得しなかった。もし取得出来ていたら現在までに得られた特許料は計り知れない。

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■違法コピーとの戦い、初の国内許諾へ

こんな状態なので工場をフル稼働させても注文を捌き切れません。そしてやはりというか 、無断コピー品が他メーカーから次々と発売されて市場にはタイトーの純正品と他メーカーの 『偽インベーダー』 が混在、タイトーの利益が大きく阻害される問題が起きました。

タイトーは無断コピー品抑止策として、1978年末に他メーカーへの製造許諾に踏み切りました。これまで日米のメーカー間では前例がありましたが、国内同士のメーカーで製造許諾を交わした例はありませんでした。

『許諾を受けた社のインベーダータイトル』
 ・IPMインベーダー アイピーエム㈱(後のアイレム
 ・TTスペースインベーダー 新日本企画(後のSNK
 ・ジャトレスペクター  ジャトレ(後のコナミ
 
・サミー・スペースインベーダー サミー工業
 ・スペースインベーダー ロジテック: 同名のパーツメーカーとは無関係

しかしその後も製造許諾を得ずに類似ゲームの製造に着手するメーカーが多くあり、翌年の1979年には正規の許諾を受けた製品と無断コピー品が一斉に市場に出回る事になりました。任天堂タイトーの許諾を得ずに「スペースフィーバー」という亜流インベーダーを販売していました。

もはやタイトーだけでなく、業界全体にとって 『違法コピー商品』避けられない問題となり、タイトーはコピー品を排除する為に民事訴訟手続きを開始します。
当時タイトーの商品部長だった島田信幸氏は
『オリジナルメーカーの正当な権利と利益を保護する』
『日本初の国内メーカー同士の許諾』
この2つを実現する事に尽力しました。

しかし法律制定の実現を見る事なく、島田氏は2年後の1981年に50歳で死去します。その島田氏の死から翌年の1982年、ついにTVゲームが 『著作権法上保護される著作物』 として認められます。(http://tyosaku.hanrei.jp/hanrei/cr/5010.html

そしてさらに翌年の1983年、任天堂から発売される赤と白の家庭用TVゲーム機が20年もの間、国民的ゲーム機として子供たちに楽しさを提供し続けて行きます。

…以上が 『スペースインベーダー』 が登場するまでの経緯と、発売以降の当時の『業界』側の流れです。次は当時このゲームを購入した経営者オペレーターとこのゲームで遊んだユーザー達に与えた影響についてまとめます。