ゲーム今昔

TVゲームの昔話やドラクエウォーク旅

(補足):国外TVゲームの発生

ゲーム史探究者は世界中にいるので、数年前の通説がコロッと覆されたりします。
毎日は無理ですが、何か新しい発見があれば随時更新して行きます。

■世界初のTVゲームから「PONG」まで
世界初のTVゲームはいつなのかというと、これまた諸説あるのですが当時の画面写真が残っている物では1952年にイギリスのケンブリッジ大学院生だったアレキサンダー・サンディ・ダグラス氏がEDSACというコンピュータで制作した「TIC TAC TOE」(ティックタックトゥー)が世界初と言われています。(ゲーム内容は「井」を書いて○×を縦横ななめに3つ並べた方が勝ちの3目並べです)


横35ドット×縦16ドットのブラウン管表示でした。

その後、1958年にアメリカのニューヨーク州アプトンにある連邦原子力研究機関「ブルックヘイブン研究所」の部長だったウィリー・ヒギンボーサム博士が、地元住民の原子力研究に対する不安を解消する為の研究所一般公開で、つまらなそうな見学者に楽しんでもらおうとオシロスコープに表示するテニスゲームを開発します。

ウィリー博士はかつて日本に投下された原子爆弾のタイミング制御回路を担当しており、自分が携わった兵器が生み出した悲惨さから、第二次大戦後は核拡散防止を目的とする団体「米国科学者連盟」の初代議長や最高顧問として、科学技術で悲劇を生むのでは無く笑顔を生む分野への活用を目指していました。

「Tennis for Two」と名づけられたこのゲームは、コンピュータ研究の一環として開発されて限られた技術者だけが目にするゲームでは無く、普段コンピュータと縁の無い一般人に娯楽として提供された世界初のTVゲームと言われています。

www.youtube.comTennis for Two

こうして限定的に一般市民にも触れる機会が出て来たTVゲームでしたが、後の市場発生に影響を与えるきっかけが同じ1950年代、家庭用TVゲーム機の原案がLoral(ローラル)というTV機器開発メーカーに勤務していたラルフ・ベア氏より提案されます。TV受信機を調整するテストで画面に線やチェッカーボードが書ける事から他社との差別化で会社のTVにゲームを組み込んだら受けるのでは?と上司に提案しますが普通に却下されます。

その後1960年、サンダースアソシエイツ社の双方向映像部門の開発部長になって自分の案を自由に研究・開発出来る立場となったベア氏は改めて当時の上司に却下されたTVゲームへの思いを復活させます。ベア氏が熱い思いをたぎらせている頃、次の歴史的なTVゲームとして1962年に当時マサチューセッツ工科大学の学生だったスティーブ・ラッセル氏がPDP-1というコンピュータで制作した「スペースウォー」が誕生します。

ラッセル氏は当時のプログラム記録媒体だった紙テープを誰でも持ち出し可能にして、プログラムをオープンにした事から、全米各地のPDP-1を設置している教育機関にスペースウォーは移植され、独自の仕様を追加された「スペースウォー○○大学バージョン」が生まれました。


PDP-1とスティーブ・ラッセル氏


PDP-1で動作するスペースウォー

■世界初の家庭用TVゲーム機
1966年夏、ニューハンプシャーのバス停で人を待つ間にベア氏はTVゲームの構想や仕様をメモ帳に書き留め、二人のプレイヤーがそれぞれ画面上の光点を自由に操作出来る試作機を完成させます。

1つの点を狐に、もう1つの点を猟犬に見立てて追いかけるという単純な内容でしたが、「FOX&HOUND」と名付けられたそのゲームを見た研究開発部取締役のハーブ・キャンプマン氏が絶賛して会社にプロジェクトとして認知されると、1967年1月には新たにビル・ハリソン氏がTVゲーム開発チームに加わり、おもちゃのライフル銃を受光機に改造して「光線銃」ゲーム等を開発します。

元々軍需用製品を主力としていたサンダース社にとって光線銃は軍事関係の顧客にアピールしやすい製品ではあったものの、当時ベトナム戦争による不況で社の業績は傾く中で、多額の研究費を費やしていたTVゲーム開発部は「会社の金を無駄遣いしている」と批判する人も社内に多くいたそうです。

そしてもう1つ、電子機器の回路設計や開発を行う技術者であるベア氏やハリソン氏は「TVゲーム機」を作る事は出来ても、そのゲーム機で動作する「金を払ってでも遊びたくなる面白いゲーム」を思いつく発想力はまた別の才能であるという問題に直面します。

すると1967年6月、キャンプマン氏の指示でビル・ラッシュ氏が新たに開発チームに参加します。ラッシュ氏の勤務態度はお世辞にも良いとは言えず、遅刻はしょっちゅうで研究室ではギターをかき鳴らす等の素行ぶりはベア氏の新たな悩みの種になります。

しかしその束縛されない奔放ぶりからラッシュ氏は創造性においては実に富んでいた様で、それまで研究チームが画面に映るキャラクタは全てプレイヤーが操作すべきという考えに対し、「プログラムが動きを制御する3つ目の光点があってもいいんじゃない?」という発想をもたらします。

これにより「プレイヤーが操作する光点で3つ目の光点に衝突すると、プログラムで軌道を制御される3つ目の光点はもう1方のプレイヤーに向かって飛んでいく」という発想が生まれ、後に「プレイヤーが操作するラケットでボールを打ち合う」というピンポンゲームの原型になっていきます。

社内プレゼンで重役達の良い評判も得られていよいよ製品化!と行きたかったのですが前述の通り会社の経営が傾く中で早く利益を回収したいという思惑と、ベア氏がピンポンゲームの背景としてテニスコートの画面を配信してもらう仕組みを考えていた事から、翌1968年にこれまでの研究で取得したTVゲームという新しい遊びの特許をケーブルTV会社に売り込みます。しかしまだケーブルTV自体も新しいメディアだった為に実現には至りませんでした。

それならとモニタ等そのまま使える部分の多い家庭用TVの受像機を製造・販売している企業に売り込みを掛けます。ケーブルTV会社の協力が得られなかった為にゲーム画面の背景には絵が描かれた透明フィルムをブラウン管にかぶせる事になり、更に元々ケーブルTV用に開発していた試作機にも改良が加えられ、7代目に当たる試作機が「ブラウンボックス」として1969年に家電メーカーに向けて発表されます。(本体が茶色だった事とブラウン管を内部で何が行われているか分からないブラックボックスにしてゲームを楽しむ、という2重の意味で名付けられました)


(ブラウンボックス)

TVゲームという全く未知数の新規事業に大手メーカーが警戒する中、MAGNAVOX社が協力の手を挙げてコスト削減の為にカラー表示とサウンド機能を削除し、これまでのPINGPONGと光線銃の様な子供向けのゲームだけでなく、家族団らんを狙ってお父さん向けのカジノやお母さん向け?のアメリカ50州を覚えるお勉強ゲーム等の計12タイトルを内蔵したゲーム機となります。

ちなみに拡張機器である光線銃の製造にマグナボックス社は当時光線銃SPシリーズ等のヒット商品を製造していた任天堂を指名、製造を依頼しています。この縁で任天堂もオデッセイのフォトセル受光素子を使った受光銃の技術を知る事になり、後のファミコン光線銃に活用しています。

本体が白くなった事でブラウンボックスというのも…という事から名前も当時1968年に公開されたSF映画「2001:A Space Odyssey」(2001年宇宙の旅)からオデッセイという名前になり1972年11月、ついに世界初の家庭用TVゲーム機として発売されました。コストを考慮してブラウンボックスにはあった音声やカラー表示は無く、機能としては画面に2~3個の光点を描画して選ばれたゲーム毎に決まった動きをする物で、ゲーム毎に付属の色セロハンをテレビに取り付けて遊びます。


オデッセイ解説


オデッセイで遊んでみた

ちなみに小売価格は100ドルで当時は固定相場制で1ドルが308円、日本円だと約30800円とかなり高価でしたが、世界初の家庭用TVゲーム機という物珍しさから発売から1年で10万台を売り上げます。

但し、物珍しさから売れた反面でTVゲームかどんな物か全く知られていない事や高価だった事、そして本来どんな家庭用TVでも接続出来るのに発売元のマグナボックス社のTVでしか接続して遊べない様な印象をCMで与えてしまった事から以降は販売台数が伸びず、1年後には79ドル(24332円)に値下げされます。

結果として生産が終了する1975年までにオデッセイは36万5千台を売り上げました。世界初の家庭用TVゲーム機として(発売元のマグナボックス社はもっと売れると思っていた様ですが)この数字だけ見ると大成功とは呼べないかも知れません。

しかし「TVゲーム機」という商品を世にもたらした事による製造特許やTVゲームの製造・販売における独占権をベア氏が所属するサンダース社から得ていた事により、これ以降世界中のメーカーがTVゲーム機を製造する際に請求出来る特許使用料等で、単なる1ゲーム機の売り上げにとどまらない膨大な利益をその後マグナボックス社が手にする事を考えると、大成功以外の何物でも無いのではないでしょうか。

※ラルフ・ベア氏はTVゲームを発明した功績が評価され、2006年に大統領ジョージ・W・ブッシュよりアメリカ国家技術賞を授与されています。

■TVゲーム市場を確立して崩壊させた会社「ATARI

話が前後しますが、1962年に大学生の間で人気になったスペースウォーに一際大きな関心を持つ「ノラン・ブッシュネル」というユタ大学工学部の学生がいました。

彼は大学時代に遊園地でアルバイトをしており、ゲームコーナーで客引きをしつつ得意の電気工作を生かしてエレメカの修理を担当していました。その中で電気工作の技術を使ってアーケードゲームで何か儲ける事は出来ないか、と日々考えていたのでした。

その後、ブッシュネルはディズニー関連会社等を転々としつつ結婚して2人の娘を設けて世界初のテープレコーダーを発売したアンペックス社に在籍していた1970年、半導体の価格が急劇に安くなり手に入り易くなったのを知ると、次女を長女の部屋に押し込めて空いた次女の部屋を工作室に変え、スペースウォーのアーケード版製作に没頭します(このゲーム発売のためにSyzygyという会社を次女の部屋を住所登録して設立しています)。

そしてアンペックス社の同僚だったテッド・ダブネイとラリー・ブライアンの3人でナッチングアソシエイツ社に転職までしてこのゲームを「コンピュータ・スペース」という名前で世界初のアーケードゲームとして1971年に発売、主に遊園地のゲームコーナーに設置します。

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世界初のアーケードゲームという記念碑的なタイトルでしたが、商品としては全く売れず失敗に終わりました。理由は、

・操作説明書を読まないと遊べない複雑な操作方法
・元となったスペースウォーが使っていたモニターはベクタースキャン方式と呼ばれる
 線を素早く描画出来るモニターだったのに対し、コンピュータ・スペースで使った
 モニターはコスト面から家庭用のラスタースキャン方式だったので制度に差が出て
 画面がぼやけてしまい、全体の処理速度も遅くなってしまった

…等があります。
そんな失意から翌年の1972年に世界初の家庭用TVゲーム機「ODYSSEY」がマグナボックス社から発売されると、アソシエイツ社から展示イベントを見て来る様に言われたブッシュネルはその動きに感動、すぐに自分でも同じ物を作ろうと考えますが横取りされない様にアソシエイツ社には「たいしたものじゃなかった」と報告、同年会社を辞めて知人のテッド・ダブネイから借金をしつつゲーム会社「アタリ」を1972年6月に設立します。(本当は名前をSyzygyにしたかったそうですが既に登録されており、日本文化が好きで囲碁も得意だった事から囲碁用語の「当たり」を取って名付けました)

創業当時はコンピュータ・スペースの権利料やピンボールを収入源としていましたが、アンペックス社の後輩だったアラン・アルコーンを「技術者兼副社長として雇うけどウチ来ない?」と誘い、アランもアンペックス社でリストラが始まっていた事からこの話に乗りアタリに入社、そしてこのアランにブッシュネルがオデッセイに内蔵されていた複数のゲームの中からピンポンゲームを真似た「PONG」を作らせて11月に発売した所これが大ヒットとなり、設立から僅か半年でアタリの大躍進が始まります。

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当時人気だったピンボールが1日100ドル位の売り上げだったのに対し、PONGは1日で200ドル稼ぐ事から注文が殺到、原価500ドルで製造したPONGが1200ドルで飛ぶように売れました。会社は10ヶ月の間に3回拡大の移転を繰り返して200人の従業員で日産100台体制を確保、それでも人手が足りずに誰彼構わず声を掛けては従業員として雇いました。そんな無試験で集めた従業員なので工場内は常にマリファナの臭いとロックの爆音状態、金に困れば部品を売り払う様な集団でした。

こうして資本金500ドル(約20万円)で創業したアタリ社は年間売り上げ300万ドル(約10億8千万円)を叩き出し、アメリカ国内でも例の無い急成長を見せて大企業の仲間入りを果たすと共に、胡散臭いと銀行も融資を渋っていたアーケード市場の魅力を全米に知らしめました。

ただ、この急成長ぶりについて行けなくなった創業仲間のテッド・ダブネイが退職を申し出た為、直営で機器を店舗に設置する権利をダブネイに渡す代わりに株式は全てブッシュネルが取得する事で円満退職とし、アタリ社は完全にブッシュネル個人の物になります。

また、40人目の社員として後にアップル社を創設して世界を変革するスティーブ・ジョブスが入社し、1975年には後にジョブズと共にアップル社を創設するスティーブ・ウォズニアックも関わってPONGに続くヒット作となる「BRAKEOUT」を発表します。

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アタリは1975年には初の家庭用機「ホームポン」も発売します。しかし世界初の家庭用機「マグナボックス」がそれほど注目されなかった事から「こいつもあまり売れないだろう」と思われて事前の売り込みでは小売店にあまり興味を持たれませんでした。しかし大手百貨店「シアーズ」からクリスマス商戦用に15万台を独占販売権付きで納品してくれないかと(しかも製造資金が調達出来ないならウチが出すよというオマケ付きで)お誘いが来たのです。

こうして1975年のクリスマス商戦にはシアーズのみで購入出来るホームポン(独占販売感を強めるためにTELE-GAMESという名前に変更)が発売。そこに同年マグナボックスから発売された3種類のゲームが内蔵された家庭用機「オデッセイ200」との一騎打ちとなりますが、やはり大手百貨店のバックアップと「独占販売」という売り文句の強さからホームポン15万台は完売、元々は自分達が作ったゲーム機に入っていたタイトルをコピーされたマグナボックスが敗退します。

 

さすがに納得のいかないマグナボックス社は後にアタリ社を訴えて70万ドルで和解しています。ちなみにマグナボックス社がオデッセイ関連で最も儲けた収入はこの和解金でした。翌1976年、全米の家庭用機市場はほぼホームポン一色となりましたが、このアタリ社の成功を見て…

・コレコ:「TELSTAR(3タイトル内蔵50ドル)」
マグナボックス:「オデッセイ300(69ドル)」「オデッセイ400(100ドル)」「オデッセイ500(カラー搭載で4ゲーム内蔵、ポンに加えてサッカーゲーム追加)」
・アタリ:「スーパーポン(カラー表示のポン。79ドル)」

等が発売され、ここでは内蔵ゲーム数とカラー表示でオデッセイ500が優位に立ちます。これで家庭用機元祖のマグナボックス社がついに報われるかと思いきや、ここで従来の本体内蔵型でなくゲームプログラムを外部接続のカートリッジに収めて交換する事で無限にゲームが遊べる「カートリッジ交換型」で初のCPU搭載家庭用機ゲーム機でもあるフェアチャイルドセミコンダクター社「Video Entertainment System:VES」が170ドル(85000円)で登場します。

ちなみにこの1976年には、世界初の家庭用携帯ゲーム機となるマテル社「MattelAutoRace」が発売されています。残念ながらレースゲームと言いつつ光の点を動かすだけのシンプルさであまり売れませんでした。しかし続いて発売した「MattelFootBall」が5万台を売るヒットとなると、一気にLEDゲーム機ブームとなりコレコや他メーカーも追随して携帯機を販売します。

そんな携帯機の発生もあり、据え置き型もカートリッジ交換型の登場で市場争いが熾烈になる中、1977年には以下のハードが登場します。(ちなみにマテル社はカードゲームのUNOやバービー人形等を発売しているアナログ玩具で有名な企業です)

・アタリ:1975年にアーケードでヒットしたブレイクアウトと7種類のピンボールを内蔵した「ATARI VideoPinBall」(70ドル)
・コレコ:カートリッジ交換型「TELSTAR Arcade」、4種類の戦車ゲームで遊べるゲーム内蔵型「TELSTAR COMBAT」、「TELSTAR Alpha」、「TELSTAR Ranger」、「TELSTAR Colormatic」
マグナボックス:「オデッセイ2000(なぜかモノクロ表示に逆戻り)」、「オデッセイ3000」、「オデッセイ4000(カラーで8タイトル内蔵型)」
・Bally:「Bally Arcade(カートリッジ交換型、当時最先端CPU「Z80」搭載でBASICプログラミング可能)」(300ドル)
・アタリ:「ATARI STUNT CYCLE(4種類のバイクゲーム内蔵型)」、「VideoComputerSystem:VCS(カートリッジ交換型で200$)」

中でも業界トップのアタリが満を持して発売したVCSは、先行機のVESや価格の高さが影響して期待よりも売れませんでした。しかしアタリ初の家庭用機ホームポンの時と同様に大手百貨店シアーズの協力を得て地道に売り上げを拡大して行きます。(酷似した名前で出されたフェアチャイルド社は区別する為にVESの名称を「CHANNEL F」に改めます)

1976年にフェアチャイルド・セミコンダクター社が発売した世界初のROMカートリッジ交換型家庭用機「チャンネルF」の登場で、本体に内蔵されてそれ以上のゲームを遊べなかった本体内蔵型からゲームプログラムを内蔵したROMカートリッジを交換すればいくらでも違うゲームが遊べるカートリッジ交換型が主流になった際、ブッシュネルも自社で交換型の家庭用機を作ろうとしますが急成長したとは言え資金が心もとない事から会社の売却を検討します。

そして1976年にワーナー・コミュニケーションズがアタリを2800万ドル(100億8千万円)で買収(その内1300万ドルはブッシュネル個人の手に)し、1977年に念願のAtariVCS(VideoComputerSystem)Atari2600を発売します。
しかし発売直後は前述のチャンネルF(初めはVES:VideoEntertainmentSystemだったがVCSが出たので改名)とのシェア争いで売り上げが伸びず、ワーナーは繊維業界で実績を上げていたレイモンド・カサールを家庭用機部門のトップとして引き抜きます。

ただ、それまでブッシュネルやアルコーンが生粋のアタリ社員という意味で自らを「アタリアン」と名乗って自由な時間・服装・雰囲気で経営していた(会議はブッシュネル自宅でジャグジー風呂に入りながら等)のに対し、始業終業もネクタイもきっちりなビジネスマン然のカサールは新作のテストプレイもせずにひたすら事業拡張とVCSの売り上げ回復に注力します。

その後ブッシュネルが自ら提唱したVCS構想の規模縮小・中止を経営陣に提案しますがワーナー経営陣は激怒、更に生粋のアタリアンだけで会議を行った事がばれるとワーナーはブッシュネルを解雇します。(ちなみにこの1978年頃、マグナボックスからカートリッジ交換型でキーボード搭載でプログラムも出来る「オデッセイ2」が発売されます)

しかしブッシュネルもただでは追い出されず、ワーナーとの契約時に「退職金は自分から辞めたらもらえないがやめさせられた場合はもらえる」と取り交わしていた為に莫大な退職金を手にしてウハウハで退職、自ら設立したアタリ社をしっかり私腹も肥やしつつ6年足らずで去ります。

以降、カサール政権のアタリ社は完全に従来の自由な社風が一掃されて社員にはライバル社のスパイ根絶も目的にICタグ必須となり、生粋のアタリ社員達が提出した新作企画はほぼ没にされ、そればかりか次々に解雇されていきます。更に自分が担当していた家庭用機部門だけでなくアーケード部門にも経費削減を求め、チラシがカラーから白黒になったり新作が前年から半分になる等の嫌がらせに近い仕打ちを受けますが、結局社の利益はアーケード部門が稼ぎ、家庭用機部門はお荷物のままでした。

ちなみにここで解雇又は自主退職したアタリアン達は、1979年10月に「アクティビジョン」という会社を設立します。ゲームの作り方しか知らない連中をクビにしたってハード本体を作る工場も金も持たない連中なんか取るに足らないとアタリは気にもしませんでしたが、彼らはアタリのVCSが確立した家庭用TVゲーム市場を使い、今までとやる事は変わらないゲーム開発で反撃を開始します。

またこの年、世界初のカートリッジ交換型でIntel社の高性能CPUが搭載された携帯機MiltonBradleyCompany社「マイクロビジョン」が発売されます。が、高性能CPUの消費電力や設計時に携帯機の宿命である落下の衝撃を考慮しなかった為に故障が頻発、液晶画面表示も安定しないという不具合が重なって世界初のカートリッジ交換型の携帯機という栄誉のみであっという間に市場から姿を消します。

そしてこの頃、流行のカートリッジ交換型でなく従来の本体内蔵型据え置き機を発売してきたコレコビジョンでお馴染みのコレコ社も、携帯LED機のおかげで倒産はしないものの据え置き方では他社に押されて新作ゲーム機が売れなくなって来ていました

VCSの伸び悩みは1978年に日本で大ブームを巻き起こした「スペースインベーダー」をタイトーから許諾を受けて1980年1月にVCSへ移植すると、家庭用機で世界初のミリオンセラーとなる200万本超えの大ヒットになり、ようやくVCSの売り上げが上向きます。(これはVCSを日本で「カセットTVゲーム」という名で輸入販売していたエポック社からの提言で、カサールの数少ない功績の1つです)

胸を撫で下ろしたカサールでしたが、ここでクビにした社員達が作ったアクティビジョン社から思いも寄らない反撃を受けます。VCSの内部構造もゲームの作り方も熟知していた彼らは、1980年6月頃からVCSで動作するゲームソフトをアタリの許諾無く勝手に販売し始めたのです。

もちろんアタリは抗議しますが、アクティビジョン側は「ウチはたまたまVCSで動作してしまうプログラムが入ったカートリッジを売ってるだけで、それを買った客がVCSに差して遊ぶのは勝手ですから」というスタンスです。当時まだサードパーティという他社ハードで動作するゲームソフトを合法で販売する形態が存在していなかったからこそ出来た荒業ですが、アタリはこの対応に手間取り、前例も無い裁判は長期化します。

ちなみに1980年に発売されたライバル機にはマテルの「インテリビジョン(300ドル。16bitCPU搭載、CATV配信対応、日本でバンダイも販売)」があります。圧倒的な高性能が売りでしたが肝心のソフトラインナップで後手に回り、インベーダーを移植したVCSに敗れ去ります。

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こうしてアタリの売り上げはワーナーグループ全体の3分の1を占めるまでになり、生産が需要に追い付かなくなったアタリは生産台数の必要数を把握する為、1981年クリスマス商戦前の10月に販売代理店に対し次年度の年間一括注文を求めます。

次年度の更なる市場の成長を予想し、稼ぎ時に品切れは避けたい代理店は大量の発注を寄越し、アタリもそれを鵜呑みにして過剰生産に踏み切ります。しかし翌1982年、市場は供給過多に陥り代理店からキャンセルが相次いだアタリは大量の不良在庫を抱える事になります。

なぜ供給過多に陥ったのか。1つはVCSが人気過ぎて常に発注数を下回る入荷だった為に、小売店が売れそうな台数よりも減らされるであろう分を予測して発注台数を多めに申告した事。そして前述したアクティビジョンとの抗争が「ソフト1本売れる度にワーナー社に数%をロイヤリティとして支払う」という条件でこの1982年に和解した事がきっかけでした。

これによって「自分で本体ハードを作らなくてもロイヤリティさえ払えば他社ハードで動作するゲームソフトを作って売っても合法」という事になり、サードパーティが一気に押し寄せて半年でソフトの供給量が4倍近くになり、ネット販売も無い当時では店頭に並べ切れない程のタイトルが出回ってしまったのです。1年前には無かったサードパーティという販売形態が生まれたおかげで増え過ぎた在庫を捌き切れない代理店からキャンセルが相次いだ、という訳です。

こうして迎えたVCS二度目のピンチ、しかしここで再び日本から神風が吹きます。きっかけは1973年に設立した日本支社「アタリジャパン」が軌道に乗らず設立年にナムコへ買収された際、日本国内でアタリ製品を独占販売する契約が結ばれたのですが、VCSを海外へ売り出す際にこの契約が足かせになると判断したアタリは1979年に一方的にこの独占契約を破棄、当然怒ったナムコと裁判になった事です。

この裁判の和解目的で1980年10月に日本を訪れたアタリ業務用部門トップのジョー・ロビンズは、たまたまその年5月にナムコから発売されて大ヒットとなっていたアーケードタイトル「パックマン」を家庭用機に移植する許諾も取り付けたのです。

そしてこの許諾を知らなかったマグナボックスがオデッセイ2用にパックマンそっくりの「K.C.Munchkin」というタイトルをリリースして、かつてVCSインベーダー移植で復活した様にアタリに対して移植攻勢を仕掛けようとしましたがアタリに訴えられてしまいます。(これがコンピュータゲームに著作権があると認められた世界初の判例になります)

知らない所で進んだ移植話に社長のカサールは激怒しますが、このパックマンを1982年にVCS2600に移植した所、お世辞にも高いとは言えない移植度ながら1度目の神風となったスペースインベーダーの200万本を大きく超えるVCSソフト歴代最高の700万本をこえる大ヒットとなり、またもや日本製のゲームがVCSのピンチを救ったのです。

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そしてパックマンにピンチを救われたこの時期、ワーナー経営陣は2つの大きな判断ミスを犯します。

一つは劣化移植パックマンが売れてしまった事で「ある程度似たゲームにすれば多少出来が悪くても売れるんだ」と思ってしまった事、もう一つはVCSの人気にあやかって儲けたいだけのゲームを作った実績のない多種多様な企業がサードパーティ参入を申し出た際、「ロイヤリティさえ払ってくれれば誰でもどうぞ♪」とゲーム内容を一切チェックせずに承認してしまった為に、他社タイトルをコピーした物や中にはまともに動作しない粗悪ソフトが乱造されてしまったのです。

更にワーナー社自身も2000万ドル(約75億円)のライセンス料を払って得た映画「E.T」のゲームを6週間で制作した上に前述の事前発注制を取って500万本を生産、パックマン同様に「有名タイトルなら多少内容がつまらなくても売れる」という勘違いのままにクリスマス商戦の主力にすべく準備を進めます。

1982年当時に発売された主な家庭用機には以下があります。
・エマーソン「アルカディア2001」(世界各地に同仕様他名のハードが30以上存在)
・GCE「Vectrex」(200ドル。ベクタースキャンモニター付属。日本では「光速船」として販売)

アタリは1982年11月に「Atari5200(250ドル)」というVCSの後継機種を発売しますがVCSとの下位互換は無く、先代機で築いた優位な市場を生かせない上にこの機種のベースと同じ性能を持ちパソコンにもなる「ATARI400」を選ぶ人が多く、更に同年発売されたコレコ社の「コレコビジョン(200ドル)」にゲーム機としての性能も劣っていた事から低調な売り上げで、同年12月8日に第四四半期の利益を下方修正すると投資家に株を売られて翌日株価が1日で30%以上も暴落します。

しかもこのコレコビジョン、拡張パーツを付けるとアタリVCSのカートリッジも差して遊べてしまうという、かなりきわどい仕様でアタリユーザーを引き抜こうとしていました。更に同年「コレコジェミニ」というVCSと全く同じ性能のクローンマシーンまで発売、VCS市場を乗っ取る気満々でした。

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そして1982年のクリスマス商戦。主力商品としてコレコはコレコビジョン、マテルはインテリビジョン、そしてATARIは5200…ではなく相変わらずのVCSでした。なぜ5200を主力にしないかと言えば、これまでのVCS普及率が捨てがたいのと5200発売後にVCSで発売された「ピットフォール」がヒット作となり、小売店もこの売れ行きなら5200よりVCSの方が良いと多数発注したからでした。

ATARIも「E.T」が売れればまだVCSで戦えると思っていましたが、今でも粗悪ソフトの代表として扱われるほど内容が酷く500万本中売れたのは150万本、残り350万本をコンクリートで埋め立てて無かった事にしたり、他にも実際に15万ドル(約3500万円)相当の賞品がもらえる「ソードクエスト」のキャンペーンを行ったりとゲームの面白さを追求する以外の話題集めで迷走し、他の粗悪サードパーティと共にゲームの面白さを無視して粗悪ソフトを出し続けます。(しかもアタリはマテルを辞めてアタリに入社した社員が自社ハード用ゲームカートリッジをマテルのインテリビジョンでも動作する様に改造、自分がコレコにされた事を他社に仕掛けて裁判を起こされる始末)

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粗悪品を掴まされ続けて来たユーザーもこのアタリバッシングと共に怒りが爆発、アタリ以外のメーカーも含めて誰もTVゲームを商品として手に取らなくなり、日本と違って仕入れても売れなかった分は販売店がメーカーに返品出来るので(全ての小売店が返品出来る訳ではないです)返品が山となり、北米家庭用機市場が崩壊する「アタリショック」と呼ばれるTVゲーム業界に関わる人間全てが不幸になった悲劇が完成します。(日本ではアタリショックという名が有名ですが海外ではTVゲーム市場の崩壊という意味で「VideoGameCrush」とも呼ばれています)

翌年7月にカサールは赤字転落の責任とインサイダー取引疑惑から解雇。タバコ業界からジェームズ・モーガンが代わりに会長に就任し、1万人近くいた社員のリストラ等で徐々にアタリ社も回復します。が、日本からのヒット作も移植されて面白いゲームも増えてはいましたが、返品出来なかった小売店では通常30ドル前後のソフトが2~3ドルで投げ売られ、そんな状況では新規参入メーカーも定価で売れずに利益が出ず、そもそも聞いた事の無い新規メーカーが作ったゲームなんて誰も見向きはしませんでした。

更にこの頃メディア王ルパード・マードックによるワーナー買収攻勢でアタリの経営改善どころではなくなってしまったワーナーは家庭用機部門とパソコン部門の売却を決定、1985年にアタリはアーケード部門の「アタリゲームズ」とパソコン・家庭用部門の「アタリコープ」の2社に分割、アタリゲームズナムコが株式を購入して経営権を取得、アタリコープは元コモドール社長のジャック・トラミエルが買収、その後トラミエル・テクノロジー社に吸収されます。

ここで1983年7月に日本で発売されたファミリーコンピュータアメリカで販売すべく、任天堂がトラミエルにアタリ主導で販売して欲しいと持ち掛けますが、トラミエルはアタリをパソコンメーカーに模様替えしたかったのでこの話を拒否。(もしこの話を受けていればアタリも復活出来たでしょうに…)

その後、アタリに雪辱したコレコはコモドール64等のホームパソコン大ヒットを見てパソコン業界に参入。1983年に「アダム」という商品を発売しますが初期不良の多さで大不評な上にパソコン界の巨人IBM製品と発売時期が重なって全く売れないアダムは1985年に販売終了、8000万ドル(160億円)の損失を出して倒産の危機に陥ります。しかし全く別事業のキャベツ畑人形が1983年クリスマスに大ヒットして倒産は回避、翌1984年にはコレコビジョンの生産を中止してTVゲーム事業から撤退します。

そして同時期にマテルもTVゲーム事業から撤退、アタリショックをきっかけにトップメーカーの撤退が相次いだ上にホームパソコンの隆盛もあって、アメリカの家庭用TVゲーム機市場は1985年に任天堂がシアトルにアメリカ支社(NOA:Nintendo of America)を設立して海外版ファミコンNESNintendo Entertainment System)本体に同梱された「おひげのおじちゃんがキノコ食べながら亀にさらわれたお姫様を助けるゲーム」を子供達が手に取るまで完全に停止します。

アメリカ家庭用機市場を復活させた日本製ゲーム機

1985年1月、日本の任天堂という会社が作ったゲーム機がラスベガスで行われたCES(Consumer Electronics Show)で発表されます。名前はAVS(Advanced Video System)といい、コントローラはワイヤレスでキーボードと光線銃が付属でプログラミング機能を搭載していました。

しかし期待して集まった関係者からは不評でした。ゲームとパソコンの機能を併せ持つ機種が多く出回った挙句に売れず(特にコレコ社アダムの印象が最悪)、アタリショックによる業界消滅を体験していた事から「どっちつかずのゲーム機もどきなんてこれまでと同じじゃん」となってしまったのです。

しかし同年10月、任天堂はパソコン機能を排除して日本で大ヒット中だったファミコンとほぼ同じ機能を持つNESNintendo Entertainment System)を持って再度アメリカに乗り込んで来ます。

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「国内版ファミコンとの違い」
AtariVCSが実装せずに他社にコピー品を生産されるきっかけになった著作権保護システム「10NES」搭載(代償として拡張チップが使えずNESに移植出来ないタイトルも)

・本体とコントローラ、カセットの形状
ディスクシステム使用不可
・売り方として2種類がある。
「デラックスセット」:ロボット・専用ソフト・光線銃で249ドル
「アクションセット」:光線銃・ソフト2本で200ドル
(ロボットを優先的にセットにした理由として、販売店のTVゲーム機に対する拒絶反応を緩和する為に「これはロボットが付属しているので従来のTVゲーム機とは違いますよ」とアピールする目的があったとも言われる)

ニューヨークで売り出したところ大ヒットとなり、翌1986年には販路を全米に広げて展開すると、TVゲームに飢えていたユーザーの支持を得て実質ライバル機もいない中、荒野に舞い降りた救世主の如く着実にシェアを拡大して行きます。

しかし海外のメーカーに好きにさせてなるかとライバル機としてBitCorporation社からSEGA社SG1000とコレコビジョンの互換ハード「Dina2in1」が登場しますが日本国内でもファミコンに圧倒的敗北を喫したSG1000と3年前に出たハードを合体させた所でNESに太刀打ち出来る訳も無く、すぐに姿を消します。

そして任天堂の躍進をまた特別な感情を持って見ていたのがアタリでした。アタリはファミコン発売当初に任天堂からアメリカでファミコンを展開する際に協力を打診されていましたが、アタリが2社に分裂した際に家庭用機部門をパソコン部門に鞍替えする予定だった為に断っていました。そしてその結果がこの躍進を招いてしまった、もし協力していれば今でも業界に君臨出来ていたかもしれないのに…と。

という訳でATARIは家庭用機市場に復帰すると、NESやSG1000等と争うべく1986年に「ATARI7800」を140ドル(約35000円)で発売。更に同年過去の遺産を活かすべくVCSの廉価版「ATARI2600Jr」を50ドルの安さで発売します。(ATARI7800もVCSと互換を持ち、グラフィック性能はNESにひけをとりませんでした)

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しかし実はこのATARI7800、アタリショックとアタリ社分裂や社長交代などのゴタゴタで発売出来ずにずっと倉庫で眠っていた1984年に発売予定のハードでした。その為、倉庫で寝ていた空白の2年を研究に費やして発売されたNESとはグラフィック以外の性能では比較にならず、さくっとNESに敗退します。

次のライバルとして登場したのはセガでした。日本では「セガマークⅢ」まで発売していたもののファミコンに市場を制圧されてしまいましたが、まだ制圧されていないアメリカで好調だったアーケード市場のヒットタイトルを移植して行けば勝ち目があるんじゃないか、とこのマークⅢに改良を加えた「セガマスターシステム(200ドル)」として1986年に参入して来たのです。

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しかし、ある意味アメリカでは日本以上に話にならずにマスターシステムは惨敗しました。

当時毎年の様に新ハードを投入して下位互換も無かったSEGAマスターシステムの同時発売タイトルが2本しか揃えられず、対する任天堂は本体同時発売タイトルに現在でもソフト販売本数売り上げNo1の「スーパーマリオブラザーズ」を揃えていたのです。スーパーマリオがいなかった日本でも勝てなかったのに、マリオがいる上に遊べるのが2タイトルでは勝てる理由がありませんでした。

そんな中で迎えた1986年のクリスマス商戦。ATARI7800はソフト開発が難しかった事から先代5200の失敗を繰り返すかの様にソフトを揃えられず早々に敗退。セガもマリオに対抗して制作された「アレックスキッド」で勝負に出ますが、見た目だけなら任天堂も配管工のさえない中年で良い勝負とはいえ、作り込まれたゲーム本編の面白さでは到底太刀打ち出来ずNESの一人勝ちとなります。

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更に任天堂NESでソフトメーカーとサードパーティ契約を結ぶ際に「ウチのNESで出したタイトルを2年間は他社ハード移植禁止ね」と取り交わしていたので、セガATARIには中々ソフトが揃わなかったのです。こうして日本でヒットしたタイトルをNESに移植してソフトを充実させて行く任天堂との差は開く一方でした。

他ライバルゲーム機は駆逐し、パソコン市場も前述のコレコ社アダムや新出のApple社もこけていた為に当面はNESが順風満帆な状況でした。(ここでマイクロソフトアスキー等の複数メーカーが賛同した統一パソコン規格「MSX」を採用したパソコンも発売されましたがアメリカでは日本ほど規格を採用した機種が発売されず、やはり相手になりませんでした)

唯一張り合えたのは1987年1月に発売したコモドール社PC「Amigaシリーズ」で、16bitCPUを搭載したグラフィックで特に廉価版の「Amiga500(700ドル→85400円)」がゲーム機代わりとして支持を受けます。

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こうしてパソコンメーカーがしのぎを削る中で、ゲームとパソコンの部門を持つアタリが満を持して1987年に当時発売中の8bitパソコンを改良したゲームパソコン「AtariXE GameSystem(200ドル)」を発売します。しかし肝心のゲームソフトが数年前のパソコンで発売されたタイトルの使いまわしの時点でゲーム機としての魅力は無く戦う前に敗退します。

他にもWorlds of Wonder社のゲーム機「Action MAX(100ドル)」という光線銃専用でカートリッジでなくVHSテープでリアルな映像を流すという、従来と違うアプローチでグラフィックの向上を図りましたが、発売タイトル5本と光線銃のみという幅の狭さでこれまた敗退します。そして日本では最後まで勇敢に戦ってファミコンに負けたセガですが、アメリカでは別メーカーにマスターシステムの販売権を委託して被害を最小限にしてアメリカ市場から戦略的撤退します。

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セガ史上最高に健闘した家庭用ゲーム機
1988年、アメリカであらゆるライバルに打ち勝って来た任天堂NESアメリカ電話会社「AT&T」と協力して遠く離れた人ともゲームで遊べるネットワーク構想にも着手、日本同様に全土統一に向けて着実に歩み始めていました。

また、NESが来る前まで全米トップシェアだったアタリはNESの広大な市場をまずは足掛かりにすべく、自分達のアーケードゲームNESに移植する為に「TENGEN」という会社を設立します。(これもアタリという名前と同じく囲碁用語です)

しかし日本国内と同様にアメリカでも任天堂は各メーカーに対してNESで年間リリースできるタイトルを制限して品質の維持しようとしていた為に、これまでの豊富な自社タイトルをどんどん移植したいテンゲンは不満を募らせ、なんと勝手にNESを解析して任天堂の許可なくNESで動作するタイトル(当時アメリカで人気だったテトリス)をリリースしてしまいます。

これはもちろん任天堂も契約違反として裁判に発展しますが、そのタイトルも自分がアーケード版にリリース出来る権利しか持っていないテトリスを選んだ事も後に問題になってきます。

実はこの時、任天堂も1989年発売予定の携帯機「ゲームボーイ」にテトリスを移植すべく著作権を持つソ連まで行き、本家から家庭用版移植の正式な許諾を取り付けていました。これは複雑な話で、まずソ連からハンガリーにある「アンドロメダソフト」という会社がPC版のテトリス移植許諾を得ていましたが、それを拡大解釈してソ連から許諾を得ていない家庭用版も「大丈夫だろう」と持ってもいない権利を許諾、それを受けたテンゲンが「じゃあNESに移植しても良いよね」という経緯での話だったのです。

その後、任天堂ソ連に家庭用機版のテトリス許諾を得る交渉の席で「すでに海外では家庭用機版テトリスあるじゃない」とソ連に見せた事で、自分達が許可した覚えのない家庭用機版テトリスがすでにリリースされている事を知ったソ連は激怒、「家庭用機版テトリスを移植する権利はちゃんと直接交渉に来た任天堂だけだ!」と改めて発表、その会社から嘘の許諾を得ていたアタリが勝手に作った「NESテトリス」も販売差し止めになったのです。

テトリス販売許諾の流れ」(テトリスエフェクトという書籍が詳しいです)
テトリスソ連で開発されたゲームなので版権は国務機関のアカデミーソフトが所持。

アカデミーソフトがライセンス管理業務をエローグというソ連の貿易窓口企業に委託

ハンガリーアンドロメダソフト社がエローグに許諾を申請、却下され続けたがどうにかPC版テトリスのライセンスをもらう

イギリスのミラーソフト社がアンドロメダソフト社に家庭用・業務用テトリスのサブライセンス許諾を申請

アンドロメダソフトはエローグ社からPC版テトリスしか許諾されていないのに、ミラー社に家庭用・業務用両方のライセンスを出してしまう(これが悲劇のはじまり)

アメリカのアタリゲームズ社とその子会社のテンゲン社がミラー社に家庭用・業務用テトリスのサブライセンス許諾を申請してサブライセンス取得

日本のセガ社とBPS社がテンゲン社に家庭用・業務用テトリスのサブライセンス許諾を申請、サブライセンス取得(88年12月にBPSファミコンテトリスを発売)

89年にゲームボーイ発売を控えた任天堂が携帯ゲーム版テトリスのライセンスをアンドロメダソフトに申請するものの全く許諾が得られず(この時点でアンドロメダ社も事の重大さに気づいてエローグ社に家庭用・業務用テトリスのライセンスを申請中だったので当然)

らちがあかないと判断した任天堂は直接エローグ社に出向いてBPS社製のファミコンテトリスを見せつつ携帯ゲーム版の許諾を申請

ライセンスを出した覚えの無い家庭用テトリスの存在にエローグ社が驚愕・激怒してアンドロメダ社から一切のライセンスを剥奪

改めて任天堂がエローグ社から正式な家庭用テトリスのライセンスを受ける

…という経緯でアンドロメダ社がやらかしたせいで家庭用テトリスの正式許諾は任天堂のみが持つ事となり、自身の許諾が無意味と悟ったセガは発売を中止したのです。(BPSは改めて任天堂から家庭用ライセンスを取り直してファミコンテトリスを継続して販売しました)

まさか許諾を受けた会社が嘘をついていたなんて思いもしないだろう所はアタリに同情できなくもありませんが、その後の八つ当たりとも取れる「ウチラが作ったテトリスを販売停止に追い込んだ任天堂独占禁止法違反だ」と任天堂を訴えて来た対応に対しては「勝手にNESを解析してゲーム作っといて何言ってんだ」と任天堂アタリゲームズを契約違反や営業妨害等で訴えて泥沼の戦いになります。(結果は当然任天堂有利の判決になりました)

そしてこのテトリス著作権論争は日本にも飛び火します。日本では1988年にセガが業界初の16Bitマシン「メガドライブ」を発売して発売から5年経ち、さすがに性能で限界が見えて来たファミコンを追いつめており、その切り札として「メガドライブテトリス」をリリースしていようとしていたのです。そこにアメリカから飛び込んで来た「セガメガドラテトリスの許諾を得たアタリゲームズテトリス許諾で任天堂に負けて販売差し止め」のニュース。

という訳ですでに製造が終わり店頭に並べるだけの状態だったメガドライブテトリスもこの影響で販売停止。またしてもセガは落ち度と呼ぶのはあまりに運の無い形でファミコンの牙城を崩すキラーソフトを逃がしました。一方の任天堂ゲームボーイテトリスゲームボーイソフトの中で売り上げがマリオランドを抜いて一位となる大ヒットを飛ばし、まだインターネットも普及していなくて本当の事情を知る機会の無かったセガユーザー達は「任天堂が何か裏工作でメガドラテトリスを販売停止にしてテトリスを独占販売した」と思い込んでしまい、任天堂に勘違いな敵意を向けてしまいます。

ちなみにこのメガドライブは翌1989年にアメリカで「GENESIS」という名で登場、性能では大きくNESを上回りましたが、前述の「NESに移植したタイトルは2年間他社ハードで出しちゃダメ」という2年縛りで思う様にラインナップが揃えられず、発売当初は苦戦を強いられます。

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そうこうしている間にNECから日本で1987年に発売された「PCエンジン」が「ターボグラフィックス16」として200ドルでアメリカに登場。(CPUは8Bitでしたが一部の処理を16Bitで行っていたので、メガドライブの様に本体前面に大きくギリギリ嘘ではない16Bitロゴが入っていました。本体も日本のPCエンジンサイズで出せたのに「アメリカではでかい方が高性能に見えて受ける」という理由で無駄に大きいです)

こうした次世代機の攻勢に市場をほぼ独占していたとはいえNESも押されますが、1989年に発売された携帯機「ゲームボーイ」が89ドル(約12000円)で発売、しかもアタリとセガを間接的に追い込むきっかけになったあのテトリスを、本体同時発売タイトルとしてスーパーマリオランドと共に参戦します。実現可能だったカラー表示を敢えて採用せずにバッテリー持続時間を強化して手軽に持ち運べる上に衝撃に対する強度も十分、通信ケーブルで対戦も行えるゲームボーイは大ヒットとなります。

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同年アタリからも「Lynx」というカラー携帯機が180ドル(約22500円)で発売、最大8人での通信対戦が可能とかなり時代を先取りしていましたが、カラー液晶故に稼働時間が単三電池6本で約3時間と短い上に、重量も700gと子供が持つにはちょっとした重さである事から普及しませんでした。翌1990年にはNECからPCエンジンGTの海外版「TurboExpress」も登場、据え置き機の「ターボグラフィックス16」のソフトがそのまま遊べて発売初日から豊富なタイトルで遊べるのが強みでしたが、300ドル(約37500円)というゲームボーイの3倍以上という価格からやはり普及しませんでした。

こうして携帯ゲーム機という新たなプラットフォームが誕生したこの年のクリスマス商戦。ここでターボグラフィックス16は「ターボグラフィックスCD」という拡張CD-ROMドライブを発売、業界初の光ディスクという大容量と高音質のメディアで勝負に出ます。ただしこの拡張ドライブのみで399ドル(約5万円)というセレブ御用達な価格でNESのシェアを奪うまでにはなりませんでした。

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セガもアーケードの移植で対抗していましたが、やはり任天堂の2年縛り戦術や自社タイトルの移植だけでは厳しいと判断して、マイケルジャクソンを始めとする超有名人を宣伝に起用したりNESをこき下ろすCMを流すなどなりふりかまわない戦術を取ります。しかしやはりNESを追いかけきれず、市場シェアをそのまま反映する形でNESを巻き返すまでは行きませんでした。

ここでセガは、NESの看板タイトル「スーパーマリオ」を研究してスピードが欠けていると判断して高速スクロールアクションゲームの開発を決定し、任天堂と言えばマリオと言われる様な「セガと言えば〇〇」な看板キャラの確立に取り組みます。(この頃、大手ゲーム販売メーカーエレクトロニックアーツからジェネシス用ソフトをリリースしたいという打診を受けますが、EAは勝手にジェネシス本体を解析してロイヤリティの値下げを脅し半分で要求して来ます。断ればジェネシスの仕様を他社にバラされるかもしれないと思ったセガはしぶしぶこの要求を飲みます)

1991年、日本で1990年に発売されたスーパーファミコンの海外版「SNES」に向けて準備を進める任天堂任天堂ハード初となる拡張CD-ROMドライブ「プレイステーション」もSONYと提携して開発していました。しかしここで同じく日本で1990年に発売されてこの年にアメリカで販売された新たなライバル「NEOGEO」が登場、次世代はCD-ROMという風潮に逆行する従来のROMカートリッジでしたが、ゲームセンターの基板をそのまま家庭用として売り出して値段(本体650ドル:約82000円、カセット200ドル:約25000円~)は高いがゲームセンターのゲームが家でも出来るという売り1点のみで勝負を仕掛けます。

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そしてSNESがついに200ドル(25000円)で発売。本体同時発売にスーパーマリオワールドを持って来る盤石ぶりで、戦前の予想通り従来のライバル機を次々と蹴散らして行きます。

日本はこのままSNESNESを市場トップの座を引き継いで任天堂長期政権になりましたが、アメリカでは少し事情が変わりました。この年セガからGENESISで日本には存在しない、マリオに無いスピード感を追求してセガの看板キャラとなるべく「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が発売されたのです。

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そればかりかSNES発売に合わせてGENESISを190ドルから150ドルに値下げして当初10ドルだった価格差を50ドルに広げてお得感を演出、その上でマリオとソニックを露骨に比較したCMを流します。セガソニックのおかげでGENESISが売り上げでSNESを上回り、ついに日本で成しえなかった任天堂超えを果たします。

この勢いに乗ってセガは以前NESに尻尾を巻いて逃げた際に他社に権利を売り払ったマスターシステムの権利も買い戻すとこの先代機にもソニックを登場させ、過去の資産も活用します。またこの1991年にセガは「GAME GEAR」というカラー携帯機も150ドル(約18000円)で発売、カラー画面の宿命でやはり稼働時間が約3時間という短さでしたが、ここにもソニックを移植して従来のゲームボーイとGAMEGEARを露骨に比較するCMを連発、互角とは行かないまでも善戦します。

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しかし、初勝利に沸く中でも懸念は残りました。SNESに搭載予定の拡張CD-ROMドライブ「プレイステーション」です。これに対抗すべくセガGENESIS拡張用CD-ROMドライブの開発に着手します。奇しくもこの1991年はオランダ家電企業PHILIPSマグナボックス社「オデッセイ」の権利を買い取って「CD-i」(700ドル:約87000円)というCD-ROMドライブ搭載ゲーム機を発売する等、次世代の光ディスクメディアへの移行を機に家電メーカーもゲーム業界への参入を伺っていました。他にコモドール社からCD-ROMドライブ搭載のゲームパソコン「CommdoreCDTV(999ドル:約125000円)」も発売されました。(高価過ぎて自爆)

日本市場と違いセガに思わぬ一太刀を浴びた任天堂ですが、こんな時の為にと事前に発表していたSNES用CD-ROMドライブを発売すべく準備…はせず、突然前述のPHILIPSとのCD-ROMドライブ分野での提携を発表します。ずっとSONYと提携して作っていた「プレイステーション」はどうなってしまったんでしょう。

この突然のSONYとの提携破棄については色々と言われていますが、主に以下の理由が有力と言われています。

SNESにこのCD-ROMドライブが搭載された際、このドライブで動作するゲームについて任天堂の介入無くSONYの判断でサードパーティにタイトルを製造許可が出される恐れがあった

任天堂がこのドライブで動作するゲームを制作する際、動作部を担当するSONYに伺いを立ててSONY有利なロイヤリティを支払わなければならないという、自分が本体を作ったのに拡張機器メーカーにライセンス申請が必要という立場が逆転する状況になり、思い通りにゲームが作れなくなる恐れがあった。

この条件のままSNESが成功して世界に普及しまうと、ゲーム以外のアニメや映画など様々な豊富なコンテンツがこのドライブで再生出来る様になり、ハードの進歩に伴いゲーム機本体の機能でさえこのドライブで実現できてしまえばいつかファミコン市場ごとSONYに乗っ取られてしまうのでは…という考えに至ったのではと言われています。

そこでSONYには内緒で任天堂PHILIPS社と接触CD-i規格を普及させたいPHILIPS社は「天下の任天堂と手を組めばゲーム業界からCD-i規格を広められるのでは」という思惑があり、任天堂も単にSONY有利な契約を破棄したいだけで無く、PHILIPS社に依頼してCD-ROMのデータ規格もSONYの独自ではない自分達の独自規格でSNES拡張ドライブを製造出来る上に、PHILIPS社があるヨーロッパ市場進出の足掛かりとしてお友達企業を作れる訳です。

SONYとしてもここまで6年近くも任天堂と提携してハードも完成しているのに突然事実上の破棄を突き付けられて黙っている筈は無く、これまでの契約は破棄しないという任天堂と交渉を続けますが、頓挫は確実になってしまいました。手元に残されたのは繋がる相手を失くした拡張CD-ROMドライブのみ。

そしてこの提携話をずっと担当して来たSONY社員が「このまま任天堂のいいようにされてたまるか」とSONY初となる自社ゲーム機製造プロジェクトを立ち上げ、敢えて名前はそのままにゲーム機を発売する事になります。

1992年、初めて追う側としてアメリカ市場を迎えた任天堂SNESの価格を200ドルから180ドル(約22500円)に値下げします。すると一度値下げしたGENESISも「値下げとはこうやるんだ」とばかりに2度目の値下げ(150ドル→130ドル:約16000円)で対抗します。

ソフト面でもSNESは「神々のトライフォース」や「スーパーマリオカート」、「ストリートファイターⅡ」等の強力ラインナップで攻勢を仕掛け、挙句にはSNESが光線銃(バズーカ?)「スーパースコープ」を出せばGENESISも同じく光線銃(バズーカ?)「Menacer」で真っ向勝負を挑んで来るなど、文字通りなりふり構わない販売合戦を展開します。そしてここでGENESISの隠し機能が発動、なんと先代マスターシステムとの下位互換性を持っており、GENESISマスターシステムのタイトルも遊べる拡張機器「POWER BASE CONVERTER」を発売します。

任天堂も「プレイステーション出すよ」と告知だけして「ならそれが出るまでGENESIS製品買うのやめよ」とユーザに思わせる戦略で対抗しますが、自分からSONYとの提携を破棄した為に実際の発売は完全に未定で言葉のみでユーザを引き留めるのはいいかげん無理があるので、ここで2度目の本体値下げ(同梱ソフトとステレオケーブルを除去して180ドル→99ドル:約12000円)に踏み切ります。

任天堂にしてみれば儲け度外視な苦肉の策でしたが、なんと任天堂が2度目のSNES値下げを発表した翌日にGENESISも同じ99ドルに値下げ(同梱ソフトは除去)を発表、しかも任天堂プレイステーション出す出す詐欺をも逆手にとって「ウチは口先だけじゃなくて年内にGENESIS用拡張CD-ROMドライブ発売するからねー」とまで発表したのです。

そんなマッチレースの中でNECが従来のターボグラフィックス16とCD-ROMアダプタを合体させた「TurboDuo」を同じ1992年に300ドル(約37500円)で発売、任天堂セガが値下げ合戦をする中で価格の高さが目立ってしまいましたが、その後セガは宣言通り年内に拡張CD-ROMドライブ「MEGA-CD」を300ドルで発売。

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拡張機器なのにTurboDuoと同じ価格はまずいと思ったセガは掟破りな手段として初回生産分には300ドル分のソフトが買えるクーポンをおまけに付け、相変わらずのソニック人気も手伝って業界初のCD-ROMドライブ搭載機同士の戦いはセガの圧勝に終わります。(この敗戦でNECアメリカ市場から撤退します)

SNESも相変わらずの豊富なラインナップでGENESISと争いますが、ここでセガの真打ソニックヘッジホッグ2が登場、年末商戦の市場はソニック2一色となり任天堂は1992年も打倒セガに失敗します。

翌1993年、セガアメリカで当時6千万人が加入していたケーブルTVを仲介してゲームを配信する「SEGA Channel」の展開や電話回線でオンラインマルチプレイを実現する「Edge16」構想を発表、ソニックのアニメ化も発表されてはりねずみのスピード感そのままに次々と次の手を打ち出します。

一方の任天堂は自分からSONYとの提携を破棄してPHILIPS社とSNES用拡張CD-ROMドライブを出す出す言っていましたが結局開発中止。SNESの値下げも限界でGENESISの様に拡張CD-ROMドライブ搭載も出来ない厳しい状況に(自分のせいですが)追い込まれます。

そんな中でCD-ROMへのメディア移行を機に3DO社からポリゴン表示可能なゲーム機「3DO REAL」が700ドル(約87500円)で発売、しかも他社が3DO社とライセンス契約を結ぶ事で「〇〇社版3DO」という兄弟機を発売可能という戦略で市場の拡大を狙います。

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そしてこの3DOセガに思わぬ不幸をもたらします。この3DO社は以前セガGENESISを勝手に解析されて法外なロイヤリティ契約を結ばされたエレクトロニックアーツ社の前社長が設立しており、その為EA社のゲームがGENESISからでなく3DOのラインナップになってしまったのです。

といっても技術的な蓄積が無いポリゴン対応のゲームがすぐ作れる訳も無く、本体価格の高さもあって旧世代機なはずのSNESGENESISからの反撃で苦戦、最も世間から注目を集めるスタートダッシュに失敗した事でソフト会社から敬遠されて益々ソフトが発売されない悪循環に陥ります。(当初は年内40タイトルリリース予定でしたが、発売されたのは僅か10タイトル。事前にソフト提供を依頼していたナムコも余りの低調ぶりに別会社へソフト提供を始めてしまいます)

他にもPioneerからレーザーディスクドライブを採用した「LaserActive」が発売、反則技として別売りのオプションを付けるとGENESISとターボグラフィックス16のソフトがプレイ出来る仕様でしたが、970ドル(約12万円)という本体価格であっさり自爆します。

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1993年後半、GENESISSNESと互角以上に戦っていたセガは次世代32Bit機の開発に着手する為、任天堂に裏切られた復讐を胸に同じく32Bit機を開発していたSONYに提携を持ち掛けます。しかし先端技術を結集して3Dゲームに特化したゲーム機を作りたいSONYと過去のヒットタイトルを活用する為に2Dと3D両方のゲームを動作させたいセガと意見の折り合いがつかず、結局提携は実現しませんでした。

その後セガシリコングラフィックス社に話を持ち掛け、64Bit試作CPUを見せてもらい乗り気になります。しかしセガより早くこの会社を訪れ、すでにこのCPUに目を付けていたのが任天堂だったのです。

任天堂より早くシリコン社との提携を進めたいセガでしたが、決定権を持つ日本のセガ本社から「本当に32Bitを飛び越えていきなり64Bitを採用してうまく行くのか?」と慎重な検討を求められて思う様に話を進める事が出来なくなります。(日本ではすでにサターンを作ってましたし、それをいきなり一世代前にされる懸念もあったと思います)

結局セガはシリコン社との提携を見送り、シリコン社は任天堂と提携を発表、64BitCPUは「プロジェクト・リアリティ」という任天堂の次世代ハードへの搭載が決定します。

結局この年のクリスマス商戦も任天堂SNESセガGENESISの一騎打ちに。ソニック3で対抗するはずだったセガは(BGM担当のマイケルジャクソンのスキャンダルもあって)開発が間に合いませんでしたが、ソニックを中心に代わりにGENESISの廉価版「GENESIS-Model2」を99ドル(約11000円)・「SEGA-CD Model2」を230ドル(約25000円)で発売してお得感で勝負、一方の任天堂は歴代マリオタイトル(日本のスーパーマリオコレクション)詰め合わせタイトルや次世代描画技術のポリゴンチップをカセットに内蔵してSNESでポリゴン描画を可能にした「STAR FOX」等を主力に勝負します。

そしてどちらも残虐表現が売りの格闘ゲームモータルコンバット」を主力の1つに加えていましたが、任天堂が残虐表現処理をカットしたのに対し、セガもさすがに家庭用でこの表現はまずいと表面上はカットされていましたがなんと隠しコマンドで残虐表現処理が出現、この差もあってGENESISモータルコンバットの方が売り勝ちます。

更に「3」は間に合いませんでしたがCD版のソニックを発売、OPアニメやCD音質ならではのBGMと補償済みのゲーム内容でMEGA-CD初のミリオンヒットを記録、昨年に引き続きSNESとの勝負に勝ちます。

そしてかつての盟主アタリから業界初の64Bitマシン「Jaguar」が登場、16,32,64と3種類のCPUを搭載する豪華さでしたが、そこにお金をかけ過ぎたのかインタフェースが貧弱でコントローラが持ちにくく、本体接続端子からしょっちゅうケーブルが外れてしまうという基本過ぎてしょうもない欠陥を抱えていました。更に複数CPUを搭載した事で内部仕様が複雑になり過ぎてソフト会社のゲーム制作にえらく時間が掛かってしまいスタートダッシュに失敗、ほぼ自爆状態になります。

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明けて1994年、シリコン社と64Bitマシンを開発中でもうしばらく時間が必要な任天堂NESの豊富な資産を活用すべくAV端子対応版NES(ModelNES101)を49ドル(約5500円)で発売、セガGENESISMEGA-CDを一体化した「GENESIS CDX」を400ドル(約45000円)で発売。

コンパクト化を優先してコストダウンが図れず値段が高めになり、代わりにソフトを3本付けるおまけ+昨年クリスマスに間に合わなかったソニック3や日本と違いSNESより優位に経っていた事で徐々にサードパーティも増え、任天堂ハードでのみ出ていたロックマンアメリカではメガマン)やストリートファイター等の援軍も登場して売り込みます。

おまけが良かったのかNES101より注目されたGENESIS CDXでしたが、ここでかつて任天堂SONYと別れてCD-ROMドライブ開発で提携したPHILIPSから「CD-i 450」というゲーム機が300ドル(約33000円)で発売されます。任天堂と提携していた強味を活かしてなんとマリオやゼルダが登場するソフトがプレイ出来るという、劣勢なSNESを助ける援護射撃的なハードとして参戦します。

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しかし蓋を開けてみれば中身はゲーム内容は全く別物でただマリオやゼルダが登場人物に出てくるだけでゲーム本編も微妙という「実は援護射撃でなくキャラを借りて援護してもらってた」ハードだと分かると後に「〇〇ゲーしかなかったハード」という史上稀に見る称号を獲得して瞬く間に姿を消します。

次世代機はまだ先、起死回生のソフトも無く援護してくれると思ってマリオやリンクを貸したPHILIPSハードは史上最低レベルの烙印を押されて逆にブランドを低下させてくれる始末。いよいよ対抗手段が無くなって風前の灯だった任天堂。しかしここでゲームボーイからSNESゲームボーイソフトが遊べる「スーパーゲームボーイ」が60ドル(約6500円)で登場、今度こそ本当に援護射撃を得ます。

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しかし援護と言っても結局過去の資産をプラットフォームをまたいで使えるだけで、これだけでピンチを脱するのは無理がありました。なにか目玉ソフトを用意しなければ…そんな中でイギリスの大手ゲーム会社「レア社」が出していたSNESとは思えない描画表現のタイトルに目が留まった任天堂はなんとレア社の株式を買収して傘下に吸収、セカンドパーティとして任天堂キャラを使ったソフトの開発を命じたのです。

一方のセガは日本で発売予定のセガサターンアメリカで展開する事に躊躇していました。理由は日本ではSNESに敗れてGENESISメガドライブ)があまり売れなかったので次世代機で勝負するのは普通の事でしたが、アメリカではGENESISSNESを上回る売り上げを見せていてここまで育った市場を簡単に切り捨てて次に行くのは勿体無い事、もう一つは次世代32Bitの先駆けだった3DOが伸び悩んでいるのを見るとまだサターンをアメリカに投入するのは早いのでは?という事です。

「それではここまで市場に根付いたGENESISを活用して次世代機を生み出せないか?」

という事で11月にGENESIS拡張機器としてセガサターンと同じCPU(SH-2×2)を搭載してSEGA-CDと連動出来る「SEGA 32X」を11月に160ドル(約18000円)で発売します。(更にソニック3の後編を収めたカートリッジも発売、前半のカートリッジと合体させて前後編の完全版ソニック3になるという合体尽くしでした)

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1994年のクリスマス商戦、セガはSEGA32X発売前に合体ソフトのソニック3で勝負に出ますがSNESに返り討ちに合います。「SEGA32Xと合体出来ないGENESIS CDXじゃ仕方ない。32Xと合体した他の兄弟GENESISならば問題無い」とセガ陣営は思っていました。

前評判通りにSEGA32Xと合体したGENESISJaguarや価格を300ドル(約33000円)に下げた3DO REALに売り上げで上回るセガ、残るは唯一の16BitマシンSNESだけでしたが、そのSNESに思わぬ善戦を展開されます。最大の理由は任天堂が買収したレア社と共同開発して1500万ドル(16億7千万円)という膨大な広告費を掛けた「DonkeyKongCountry」でした。

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SNESとは思えない次世代機に匹敵するグラフィック、主人公には任天堂タレントのドンキーコングを使用したこのソフトを中心に「スーパーメトロイド」や「MegamanX2」、「スーパーパンチアウト」等を揃えてハードの性能向上で勝負したセガに対してソフトの面白さで勝負して来たのです。

DonkeyKongCountryとSEGA32Xの対決の結果は…

DonkeyKongCountryが1ヶ月で250万本を出荷する大ヒットだったのに対し、SEGA32Xは約50万台。ソフトとハードの台数をそのまま比べてもあまり意味はありませんが、50万台という数字はセガの予想を大きく下回るもので、SEGA32Xの部品が日本で発売予定のセガサターンと同じ部品を使っていた為にサターン製造用に確保されて十分な在庫を用意出来なかったのが主な理由でした。

明けて1995年、DonkeyKongCountryのヒットのおかげでSNESを延命と共に「まだまだSNESで面白いゲームが出るんだ」と市場にアピール出来た任天堂はシリコン社と提携して開発中の「プロジェクト・リアリティ」から名を改めた「ウルトラ64」の発売延期を発表します。SNESの底力を見せられた事で、お得意の「64出すよ出すよ詐欺」でユーザに他社ハードを買い控えさせて「それなら任天堂の次世代機が出るまでSNESで遊んでいよう」と誘導する為です。

一方、昨年末にSNESから思わぬ抵抗を受けたセガはSEGA32Xの売り上げが落ちる一方でした。日本で発売予定のサターンの噂は徐々にアメリカでも広まっており、「日本で正統なセガの32Bit次世代機が出るならSEGA32Xってのは何なんだ?それならその次世代機が発売されるまで待ってた方が良くないか?」という考えからでした。

SEGA32X用にソニック外伝タイトル「Knuckles'Chaotix」を発売したり、GAMEGEARに続く携帯機としてGENESISのカートリッジをそのまま挿して遊べる「NOMAD」を180ドル(15000円)で発売するなど挽回を試みつつ、発売が延期されたウルトラ64や日本で発売されたプレイステーションが出てくる前に市場を先行して牛耳って置こうという思惑からセガサターンアメリカ発売をこの年9月に前倒す事を決めます。

しかし、このサターン前倒し発売は「昨年11月に出たSEGA32Xが1年も経たずに今年9月で旧世代機となる」というSEGA32Xを買ってくれたユーザへの裏切りそのものでした。

ちなみにこの1995年5月から今でも世界最大のゲーム見本市である「E3」(Electronic Entertainment Expo)が始まり、このイベントでセガは9月発売予定のセガサターンについて発表するんだろうと集まった観客は思っていました。しかしセガの発表はそんな聴衆の予想より遥か斜め上を行く物でした。

「えーこれまでサターンを9月に発売するとお伝えして来ましたが、大手玩具チェーン4つの店舗に限り本日から販売を開始します」

誰もが予想しなかった方法で大きなインパクトを与えた発表した当日に販売開始という手法でサターンを400ドル(約45000円)で発売したセガ。しかしこのインパクト重視な行動が先行販売から漏れた小売店からは「結局大手チェーンびいきかよ、もうウチからセガの製品なんてなくしてSNES並べてやる」と陳列棚からセガ製品を撤去するお店が出る等、各方面から反感を招きます。

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そんな混乱を尻目に次に発表の場に立ったのはSONY。世界に名だたる家電メーカーのゲーム市場初参入となるプレイステーションアメリカでも評判になっていましたが、まずその価格が他社の3DOが700ドル、サターンの400ドルに対して300ドルと発表して度肝を抜きます。

そんな発表を尻目に、セガはとにかくプレイステーションが発売されるまでのこれから4ヶ月の間にどれだけ有利な市場を築けるかが至上命題となります。(ちなみにアタリはJaguarの拡張機器にVRや拡張CD-ROMドライブを、3DO社は3DOの後継64Bit機「M2」を発表しました。ウルトラ64を延期した任天堂はあまり印象に残れませんでした)

そして1995年9月、本来発売するはずだった月になってサターンは大手4社以外の全米でサターンを展開、「ここから全米でサターン旋風を起こすぜ」とばかりに値段は400ドル据え置きでしたがソフトを3本おまけで付けるキャンペーンでこの月に出るプレイステーションをけん制します。

そしてついにプレイステーション発売。3DOの後継M2が10月に発売延期してライバルが少なかったことも幸いして、サターンが先行した4ヶ月など無かったかの様にすさまじい売れ行きを見せます。これに焦ったセガは値段を一気に100ドル下げてプレイステーションと同じ300ドルにして張り合おうとしますが、今回ばかりはこれまでとは状況が違いました。

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まずSNESを上回るGENESISを売りさばく原動力となったソニックがサターンで用意出来なかった事、更に短期間にSEGA32Xからサターンに移行した事でゲーム開発会社では「SEGA32X用にゲーム作ってたのにすぐにサターン用のゲームなんて作れる訳無いだろ。SEGA32X用の開発機材買い取れ」という苦情が巻き起こります。

ユーザも「去年2万円近くしたSEGA32Xを買ったばかりなのにもう次世代機出すの?!それなら最初っからサターン売っとけよ、もうセガの言う事なんか信じられるか」とサターンを前倒し販売して開発メーカーやユーザを混乱させたツケがここで回って来ます。

ここで先のE3で発表していたアタリのJaguar用CD-ROMドライブ「JaguarCD」が発売、業界初のCD-ROMドライブを搭載した64Bitマシンとなり、他にJaguarVRや拡張でなくCD-ROMドライブと一体型の「JaguarDuo」も発売されます。ですが結局売れたJaguarは25万台ほどで、本体が売れなければ拡張機器のVR等も売れず開発中止となり、これを機にアタリはハード事業から撤退します。



(以降不定期で追記)