ゲーム今昔

TVゲームの昔話やドラクエウォーク旅

1982年(昭和57年):ドンキーコング裁判とエニックスのゲームコンテスト

ドンキーコングの続編

任天堂では前年業務用で発売されて大ヒットとなった「ドンキーコング」の続編の制作を決定します。担当はもちろん宮本茂氏です。普通続編と言えば主人公は同じ「マリオ」となりますが、宮本氏はここで主要キャラ「コング・ポリーン・マリオ」3者の役回りをがらっと変える決断をします。

ドンキーコングを主人公にしたらどうか?しかし当時のハード性能ではコングの様な大きなキャラクタは動かせませんでした。前回の悪役でなく、かと言って主人公にもなれないなら…コングはさらわれたヒロインになりました。

ヒロインの枠が埋まり、主人公だったマリオは前作の復讐でコングを捕らえた敵役。残った主人公の枠はコングの息子に。前作の主人公を敵役にするという思い切った配役に周囲は困惑します。

しかし宮本氏は配役だけで奇をてらうのではなく、レバーとボタン1つの操作系でジャンプやツタの登り降り(登る時は2本、降りる時は1本で素早く移動)等のバラエティに富んだアクションを提供して敵キャラや攻撃アイテムの動きにも工夫を凝らします。

そして1982年に「ドンキーコングJr.」は発売。衝撃的な配役でしたが、ゲーム内容が前作とは全くの別物だったのでユーザーにも「名前はドンキーコングだけどこれは別のゲームだ」と認識されて前作のイメージダウンに繋がる事なく、普通にヒット作となります。

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順調な滑り出しでしたが、この頃アメリカでは前作のドンキーコングが裁判に掛けられようとしていました。

ドンキーコング vs キングコング

この年、アメリカ大手映画会社のユニバーサル社が『ドンキーコングは我が社が作った映画「キングコング」のキャラクターを不法使用している』と訴えます。ちなみにユニバーサルは任天堂から許諾を受けたコレコ社にも「ドンキーコングを同梱したコレコビジョンを販売したら訴える」と脅しを掛けます。コレコ社は争う事なく要求に応じ、売り上げの3%(約500万ドル)の支払いに応じます。

任天堂も当初はコレコ社と同じく事を荒立てずに要求を飲むつもりでしたが、NOA弁護士ハワード・リンカーン氏の「反訴出来る」という説得に応じて争う決意をします。任天堂は「市場には他にもキングコングの未許諾商品がたくさんあるのにユニバーサルは許諾料を要求していない。その中で任天堂に言いがかりをつけて来たのは単に任天堂の金目当てだ」と争う姿勢を見せます。

ユニバーサルは直接交渉で任天堂が陥落しないと見るや周囲の状況を変化させようとします。任天堂が「ドンキーコング」をライセンス供与した6社を訴えたのです。任天堂ほど資産のない小さな会社は早々にユニバーサル社の要求を飲み、降伏します。しかしこうした外堀から埋めて行くユニバーサル社の攻勢に対しても任天堂は屈せず法廷闘争に持ち込みます。

NOA弁護士ハワード・リンカーンは法廷闘争の為に敏腕弁護士を雇い、準備を開始します。そしてその敏腕弁護士の名前は「ジョン・カービィ」と言いました。

■火の7日間

ユニバーサルと任天堂の法廷での闘いは7日間に及んだそうです。相変わらず金の支払いを要求するユニバーサル社に対してカービィ氏は映画とゲームとの違いをあらゆる手段を使って説明します。

そして任天堂側には切り札がありました。ユニバーサル社は1975年に最初にキングコングに映画を制作したRKO社を訴えた事がありました。そしてその際、「1933年に制作されたRKO社の映画『キングコング』は著作権の保護期限を過ぎているので、我々はRKO社に対して一切の許諾料無しにキングコングの映画を作る事が出来る」「キングコングは誰も所有出来ない物」だとユニバーサル社自身が過去に主張して勝訴していたのです。

つまりキングコングが誰の所有物でない事を知りながら任天堂を含めたいくつもの企業に訴訟を起こした訳です。その点で判事は激しくユニバーサル社を責め、

 ・ユニバーサル社はそもそもキングコング著作権を所有していない
 ・ドンキーコングキングコングのコピーではない
 ・仮にコピーだったとしても 「パロディ」 と考えられ合法

以上の点からユニバーサル社が告訴してロイヤリティを支払った各社に対して同額+慰謝料を支払う様に命じたのです。そればかりかユニバーサル社が携帯ゲーム機用にタイガーという会社に独占ライセンスを供与して作られた「キングコング」ゲームこそ「ドンキーコングのコピー」であると認めたのです。

ユニバーサルは判決を不服として反訴し、この裁判は数年続きます。結果としてユニバーサルは全訴訟について敗訴、任天堂の訴訟費用約200万ドルを負担する事になります。

■裁判から生まれた人気キャラ

任天堂を圧勝に導いたNOAの弁護士ハワード・リンカーン氏はNOA副社長に抜擢され、後に会長職まで拝します。そして法廷弁護士として闘ったジョン・カービィ氏にはNOAから「ドンキーコング号」という名のヨットが贈られました。そのヨットには「ヨットにドンキーコングという名を使える全世界独占権」が与えられたそうです。

1992年、丸くてピンクでなんでも吸い込むキャラが主人公のゲームが任天堂から発売されます。彼の名はそのゲームの主人公として、当時裁判に関わった者だけでなく世界中のプレイヤーに広く知られています。

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■「ゲームパソコン」の隆盛

実は1980年代に入ってからパーソナルコンピュータの売り上げが順調に伸びており、ゲームユーザー層との重なりもあっていわゆる『ゲーム機能付きパソコン』 とも言える家庭用ゲーム機この頃から登場し、この頃ゲーム市場にも影響を与え始めていました。

「この頃に発売された家庭用TVゲーム」
(※このころアメリカではアタリショックでゲーム市場壊滅、終了)

・インテレビジョン(家庭用 バンダイ
・オデッセイ2(家庭用 北米フィリップス社)
ぴゅう太(トミー工業)
・M5(ゲームパソコン ソード)
・ゲームパソコン(ゲームパソコン タカラ)
・マックスマシーン(家庭用 コモドール)
・ダイナビジョン(ヤマギワ電気)
アルカディア(家庭用 バンダイ
・アタリ2800(家庭用 アタリ)
ぴゅう太Jr(トミー工業)
・SC3000(家庭用 セガ
・SG1000(家庭用 セガ

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小中学生に取っても、これらのハードは『ゲーム機はゲームだけだけどパソコンなら勉強にも使えるから買って♪』と言って親にねだれる便利なハードでした。また 『マイコンBASICマガジン』、『Oh!PC』、『テクノポリス』、『LOGIN』などの専門誌がこの年に創刊されました。

エニックスによる人材発掘
この年、 株式会社エニックスは『ゲームホビープログラムコンテスト』 というイベントを開催しました。これは一般のクリエイターからゲーム作品を募集して優秀な作品を買い取って自社作品として販売するというイベントで、ゲームソフトは自社開発が基本だった当時、開発力を外部に求める画期的なイベントでした。

ちなみに最優秀賞は後に 『森田の将棋』 をヒットさせる森田和郎の『森田のバトルフィールド』、優秀プログラム賞には中村光一の『ドアドア』、入選プログラム賞には堀井雄二の 『ラブマッチテニス』 等があり、エニックスはこれらを商品化して行きます。

エニックスはこうした入賞者により良いゲームを作ってもらおうと1983年末にアメリカゲーム市場の見学ツアーを行います。当時アメリカはアタリショック直後で家庭用は壊滅状態でしたがPCゲーム市場では1980年にウルティマ、1981年にはウィザードリィ「ローグ」等の名作が発売されてRPGブームの真っ只中でした。

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アクション全盛だった日本には無い未知のジャンル「RPG」に衝撃を受けた中村・堀井両氏は「二人でこれを超えるゲームを作ろう」と決意、帰国後堀井氏はRPGの研究、中村氏は大学生ながら会社を設立して制作に取り掛かります。そして4年後の1986年、二人は家庭用TVゲーム機ファミコンで社会現象を起こすRPGを制作します。

1982年の主な出来事 (大卒初任給 約131,498円)

『一般』
植田まさしコボちゃんが読売新聞で連載開始
・フィリップス社が世界初のCDを発売 (ソニーもこの年CDプレイヤーを発売)
・500円硬貨発行、テレホンカード発売
中央自動車道全面開通
NECがPC9801シリーズを発売
・食中毒でおなじみの病原性大腸菌O-157」 発見
・フジテレビお昼の看板番組 『笑っていいとも』 スタート
心身症の機長が操縦する日航旅客機が着陸寸前で逆噴射、滑走路手前の海上
 墜落して24人死亡、150人が負傷(機長は心神喪失で不起訴)

『流行曲』
・待つわ、セーラー服と機関銃聖母たちのララバイ、心の色、北酒場、悪女
『この年に生まれた有名人』
吉井怜滝沢秀明仲根かすみ北島康介深田恭子、倖田くみ
大前茜、羽田野渉、白石涼子、本多瑛未里、桜木美里

『テレビ・アニメ』

・戦闘メカ ザブングル ・魔法のプリンセスミンキーモモ ・ゲームセンターあらし
超時空要塞マクロス   ・ときめきトゥナイト   銀河烈風バクシンガー
パタリロ        ・プロゴルファー猿    ・わが青春のアルカディア
逆転イッパツマン    ・スペースコブラ