ゲーム今昔

TVゲームの昔話やドラクエウォーク旅

(補足):国外TVゲームの発生

ゲーム史探究者は世界中にいるので、数年前の通説がコロッと覆されたりします。
毎日は無理ですが、何か新しい発見があれば随時更新して行きます。

■世界初のTVゲームから「PONG」まで
世界初のTVゲームはいつなのかというと、これまた諸説あるのですが当時の画面写真が残っている物では1952年にイギリスのケンブリッジ大学院生だったアレキサンダー・サンディ・ダグラス氏がEDSACというコンピュータで制作した「TIC TAC TOE」(ティックタックトゥー)が世界初と言われています。(ゲーム内容は「井」を書いて○×を縦横ななめに3つ並べた方が勝ちの3目並べです)


横35ドット×縦16ドットのブラウン管表示でした。

その後、1958年にアメリカのニューヨーク州アプトンにある連邦原子力研究機関「ブルックヘイブン研究所」の部長だったウィリー・ヒギンボーサム博士が、地元住民の原子力研究に対する不安を解消する為の研究所一般公開で、つまらなそうな見学者に楽しんでもらおうとオシロスコープに表示するテニスゲームを開発します。

ウィリー博士はかつて日本に投下された原子爆弾のタイミング制御回路を担当しており、自分が携わった兵器が生み出した悲惨さから、第二次大戦後は核拡散防止を目的とする団体「米国科学者連盟」の初代議長や最高顧問として、科学技術で悲劇を生むのでは無く笑顔を生む分野への活用を目指していました。

「Tennis for Two」と名づけられたこのゲームは、コンピュータ研究の一環として開発されて限られた技術者だけが目にするゲームでは無く、普段コンピュータと縁の無い一般人に娯楽として提供された世界初のTVゲームと言われています。

www.youtube.comTennis for Two

こうして限定的に一般市民にも触れる機会が出て来たTVゲームでしたが、後の市場発生に影響を与えるきっかけが同じ1950年代、家庭用TVゲーム機の原案がLoral(ローラル)というTV機器開発メーカーに勤務していたラルフ・ベア氏より提案されます。TV受信機を調整するテストで画面に線やチェッカーボードが書ける事から他社との差別化で会社のTVにゲームを組み込んだら受けるのでは?と上司に提案しますが普通に却下されます。

その後1960年、サンダースアソシエイツ社の双方向映像部門の開発部長になって自分の案を自由に研究・開発出来る立場となったベア氏は改めて当時の上司に却下されたTVゲームへの思いを復活させます。ベア氏が熱い思いをたぎらせている頃、次の歴史的なTVゲームとして1962年に当時マサチューセッツ工科大学の学生だったスティーブ・ラッセル氏がPDP-1というコンピュータで制作した「スペースウォー」が誕生します。

ラッセル氏は当時のプログラム記録媒体だった紙テープを誰でも持ち出し可能にして、プログラムをオープンにした事から、全米各地のPDP-1を設置している教育機関にスペースウォーは移植され、独自の仕様を追加された「スペースウォー○○大学バージョン」が生まれました。


PDP-1とスティーブ・ラッセル氏


PDP-1で動作するスペースウォー

■世界初の家庭用TVゲーム機
1966年夏、ニューハンプシャーのバス停で人を待つ間にベア氏はTVゲームの構想や仕様をメモ帳に書き留め、二人のプレイヤーがそれぞれ画面上の光点を自由に操作出来る試作機を完成させます。

1つの点を狐に、もう1つの点を猟犬に見立てて追いかけるという単純な内容でしたが、「FOX&HOUND」と名付けられたそのゲームを見た研究開発部取締役のハーブ・キャンプマン氏が絶賛して会社にプロジェクトとして認知されると、1967年1月には新たにビル・ハリソン氏がTVゲーム開発チームに加わり、おもちゃのライフル銃を受光機に改造して「光線銃」ゲーム等を開発します。

元々軍需用製品を主力としていたサンダース社にとって光線銃は軍事関係の顧客にアピールしやすい製品ではあったものの、当時ベトナム戦争による不況で社の業績は傾く中で、多額の研究費を費やしていたTVゲーム開発部は「会社の金を無駄遣いしている」と批判する人も社内に多くいたそうです。

そしてもう1つ、電子機器の回路設計や開発を行う技術者であるベア氏やハリソン氏は「TVゲーム機」を作る事は出来ても、そのゲーム機で動作する「金を払ってでも遊びたくなる面白いゲーム」を思いつく発想力はまた別の才能であるという問題に直面します。

すると1967年6月、キャンプマン氏の指示でビル・ラッシュ氏が新たに開発チームに参加します。ラッシュ氏の勤務態度はお世辞にも良いとは言えず、遅刻はしょっちゅうで研究室ではギターをかき鳴らす等の素行ぶりはベア氏の新たな悩みの種になります。

しかしその束縛されない奔放ぶりからラッシュ氏は創造性においては実に富んでいた様で、それまで研究チームが画面に映るキャラクタは全てプレイヤーが操作すべきという考えに対し、「プログラムが動きを制御する3つ目の光点があってもいいんじゃない?」という発想をもたらします。

これにより「プレイヤーが操作する光点で3つ目の光点に衝突すると、プログラムで軌道を制御される3つ目の光点はもう1方のプレイヤーに向かって飛んでいく」という発想が生まれ、後に「プレイヤーが操作するラケットでボールを打ち合う」というピンポンゲームの原型になっていきます。

社内プレゼンで重役達の良い評判も得られていよいよ製品化!と行きたかったのですが前述の通り会社の経営が傾く中で早く利益を回収したいという思惑と、ベア氏がピンポンゲームの背景としてテニスコートの画面を配信してもらう仕組みを考えていた事から、翌1968年にこれまでの研究で取得したTVゲームという新しい遊びの特許をケーブルTV会社に売り込みます。しかしまだケーブルTV自体も新しいメディアだった為に実現には至りませんでした。

それならとモニタ等そのまま使える部分の多い家庭用TVの受像機を製造・販売している企業に売り込みを掛けます。ケーブルTV会社の協力が得られなかった為にゲーム画面の背景には絵が描かれた透明フィルムをブラウン管にかぶせる事になり、更に元々ケーブルTV用に開発していた試作機にも改良が加えられ、7代目に当たる試作機が「ブラウンボックス」として1969年に家電メーカーに向けて発表されます。(本体が茶色だった事とブラウン管を内部で何が行われているか分からないブラックボックスにしてゲームを楽しむ、という2重の意味で名付けられました)


(ブラウンボックス)

TVゲームという全く未知数の新規事業に大手メーカーが警戒する中、MAGNAVOX社が協力の手を挙げてコスト削減の為にカラー表示とサウンド機能を削除し、これまでのPINGPONGと光線銃の様な子供向けのゲームだけでなく、家族団らんを狙ってお父さん向けのカジノやお母さん向け?のアメリカ50州を覚えるお勉強ゲーム等の計12タイトルを内蔵したゲーム機となります。

ちなみに拡張機器である光線銃の製造にマグナボックス社は当時光線銃SPシリーズ等のヒット商品を製造していた任天堂を指名、製造を依頼しています。この縁で任天堂もオデッセイのフォトセル受光素子を使った受光銃の技術を知る事になり、後のファミコン光線銃に活用しています。

本体が白くなった事でブラウンボックスというのも…という事から名前も当時1968年に公開されたSF映画「2001:A Space Odyssey」(2001年宇宙の旅)からオデッセイという名前になり1972年11月、ついに世界初の家庭用TVゲーム機として発売されました。コストを考慮してブラウンボックスにはあった音声やカラー表示は無く、機能としては画面に2~3個の光点を描画して選ばれたゲーム毎に決まった動きをする物で、ゲーム毎に付属の色セロハンをテレビに取り付けて遊びます。


オデッセイ解説


オデッセイで遊んでみた

ちなみに小売価格は100ドルで当時は固定相場制で1ドルが308円、日本円だと約30800円とかなり高価でしたが、世界初の家庭用TVゲーム機という物珍しさから発売から1年で10万台を売り上げます。

但し、物珍しさから売れた反面でTVゲームかどんな物か全く知られていない事や高価だった事、そして本来どんな家庭用TVでも接続出来るのに発売元のマグナボックス社のTVでしか接続して遊べない様な印象をCMで与えてしまった事から以降は販売台数が伸びず、1年後には79ドル(24332円)に値下げされます。

結果として生産が終了する1975年までにオデッセイは36万5千台を売り上げました。世界初の家庭用TVゲーム機として(発売元のマグナボックス社はもっと売れると思っていた様ですが)この数字だけ見ると大成功とは呼べないかも知れません。

しかし「TVゲーム機」という商品を世にもたらした事による製造特許やTVゲームの製造・販売における独占権をベア氏が所属するサンダース社から得ていた事により、これ以降世界中のメーカーがTVゲーム機を製造する際に請求出来る特許使用料等で、単なる1ゲーム機の売り上げにとどまらない膨大な利益をその後マグナボックス社が手にする事を考えると、大成功以外の何物でも無いのではないでしょうか。

※ラルフ・ベア氏はTVゲームを発明した功績が評価され、2006年に大統領ジョージ・W・ブッシュよりアメリカ国家技術賞を授与されています。

■TVゲーム市場を確立して崩壊させた会社「ATARI

話が前後しますが、1962年に大学生の間で人気になったスペースウォーに一際大きな関心を持つ「ノラン・ブッシュネル」というユタ大学工学部の学生がいました。

彼は大学時代に遊園地でアルバイトをしており、ゲームコーナーで客引きをしつつ得意の電気工作を生かしてエレメカの修理を担当していました。その中で電気工作の技術を使ってアーケードゲームで何か儲ける事は出来ないか、と日々考えていたのでした。

その後、ブッシュネルはディズニー関連会社等を転々としつつ結婚して2人の娘を設けて世界初のテープレコーダーを発売したアンペックス社に在籍していた1970年、半導体の価格が急劇に安くなり手に入り易くなったのを知ると、次女を長女の部屋に押し込めて空いた次女の部屋を工作室に変え、スペースウォーのアーケード版製作に没頭します(このゲーム発売のためにSyzygyという会社を次女の部屋を住所登録して設立しています)。

そしてアンペックス社の同僚だったテッド・ダブネイとラリー・ブライアンの3人でナッチングアソシエイツ社に転職までしてこのゲームを「コンピュータ・スペース」という名前で世界初のアーケードゲームとして1971年に発売、主に遊園地のゲームコーナーに設置します。

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世界初のアーケードゲームという記念碑的なタイトルでしたが、商品としては全く売れず失敗に終わりました。理由は、

・操作説明書を読まないと遊べない複雑な操作方法
・元となったスペースウォーが使っていたモニターはベクタースキャン方式と呼ばれる
 線を素早く描画出来るモニターだったのに対し、コンピュータ・スペースで使った
 モニターはコスト面から家庭用のラスタースキャン方式だったので制度に差が出て
 画面がぼやけてしまい、全体の処理速度も遅くなってしまった

…等があります。
そんな失意から翌年の1972年に世界初の家庭用TVゲーム機「ODYSSEY」がマグナボックス社から発売されると、アソシエイツ社から展示イベントを見て来る様に言われたブッシュネルはその動きに感動、すぐに自分でも同じ物を作ろうと考えますが横取りされない様にアソシエイツ社には「たいしたものじゃなかった」と報告、同年会社を辞めて知人のテッド・ダブネイから借金をしつつゲーム会社「アタリ」を1972年6月に設立します。(本当は名前をSyzygyにしたかったそうですが既に登録されており、日本文化が好きで囲碁も得意だった事から囲碁用語の「当たり」を取って名付けました)

創業当時はコンピュータ・スペースの権利料やピンボールを収入源としていましたが、アンペックス社の後輩だったアラン・アルコーンを「技術者兼副社長として雇うけどウチ来ない?」と誘い、アランもアンペックス社でリストラが始まっていた事からこの話に乗りアタリに入社、そしてこのアランにブッシュネルがオデッセイに内蔵されていた複数のゲームの中からピンポンゲームを真似た「PONG」を作らせて11月に発売した所これが大ヒットとなり、設立から僅か半年でアタリの大躍進が始まります。

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当時人気だったピンボールが1日100ドル位の売り上げだったのに対し、PONGは1日で200ドル稼ぐ事から注文が殺到、原価500ドルで製造したPONGが1200ドルで飛ぶように売れました。会社は10ヶ月の間に3回拡大の移転を繰り返して200人の従業員で日産100台体制を確保、それでも人手が足りずに誰彼構わず声を掛けては従業員として雇いました。そんな無試験で集めた従業員なので工場内は常にマリファナの臭いとロックの爆音状態、金に困れば部品を売り払う様な集団でした。

こうして資本金500ドル(約20万円)で創業したアタリ社は年間売り上げ300万ドル(約10億8千万円)を叩き出し、アメリカ国内でも例の無い急成長を見せて大企業の仲間入りを果たすと共に、胡散臭いと銀行も融資を渋っていたアーケード市場の魅力を全米に知らしめました。

ただ、この急成長ぶりについて行けなくなった創業仲間のテッド・ダブネイが退職を申し出た為、直営で機器を店舗に設置する権利をダブネイに渡す代わりに株式は全てブッシュネルが取得する事で円満退職とし、アタリ社は完全にブッシュネル個人の物になります。

また、40人目の社員として後にアップル社を創設して世界を変革するスティーブ・ジョブスが入社し、1975年には後にジョブズと共にアップル社を創設するスティーブ・ウォズニアックも関わってPONGに続くヒット作となる「BRAKEOUT」を発表します。

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アタリは1975年には初の家庭用機「ホームポン」も発売します。しかし世界初の家庭用機「マグナボックス」がそれほど注目されなかった事から「こいつもあまり売れないだろう」と思われて事前の売り込みでは小売店にあまり興味を持たれませんでした。しかし大手百貨店「シアーズ」からクリスマス商戦用に15万台を独占販売権付きで納品してくれないかと(しかも製造資金が調達出来ないならウチが出すよというオマケ付きで)お誘いが来たのです。

こうして1975年のクリスマス商戦にはシアーズのみで購入出来るホームポン(独占販売感を強めるためにTELE-GAMESという名前に変更)が発売。そこに同年マグナボックスから発売された3種類のゲームが内蔵された家庭用機「オデッセイ200」との一騎打ちとなりますが、やはり大手百貨店のバックアップと「独占販売」という売り文句の強さからホームポン15万台は完売、元々は自分達が作ったゲーム機に入っていたタイトルをコピーされたマグナボックスが敗退します。

 

さすがに納得のいかないマグナボックス社は後にアタリ社を訴えて70万ドルで和解しています。ちなみにマグナボックス社がオデッセイ関連で最も儲けた収入はこの和解金でした。翌1976年、全米の家庭用機市場はほぼホームポン一色となりましたが、このアタリ社の成功を見て…

・コレコ:「TELSTAR(3タイトル内蔵50ドル)」
マグナボックス:「オデッセイ300(69ドル)」「オデッセイ400(100ドル)」「オデッセイ500(カラー搭載で4ゲーム内蔵、ポンに加えてサッカーゲーム追加)」
・アタリ:「スーパーポン(カラー表示のポン。79ドル)」

等が発売され、ここでは内蔵ゲーム数とカラー表示でオデッセイ500が優位に立ちます。これで家庭用機元祖のマグナボックス社がついに報われるかと思いきや、ここで従来の本体内蔵型でなくゲームプログラムを外部接続のカートリッジに収めて交換する事で無限にゲームが遊べる「カートリッジ交換型」で初のCPU搭載家庭用機ゲーム機でもあるフェアチャイルドセミコンダクター社「Video Entertainment System:VES」が170ドル(85000円)で登場します。

ちなみにこの1976年には、世界初の家庭用携帯ゲーム機となるマテル社「MattelAutoRace」が発売されています。残念ながらレースゲームと言いつつ光の点を動かすだけのシンプルさであまり売れませんでした。しかし続いて発売した「MattelFootBall」が5万台を売るヒットとなると、一気にLEDゲーム機ブームとなりコレコや他メーカーも追随して携帯機を販売します。

そんな携帯機の発生もあり、据え置き型もカートリッジ交換型の登場で市場争いが熾烈になる中、1977年には以下のハードが登場します。(ちなみにマテル社はカードゲームのUNOやバービー人形等を発売しているアナログ玩具で有名な企業です)

・アタリ:1975年にアーケードでヒットしたブレイクアウトと7種類のピンボールを内蔵した「ATARI VideoPinBall」(70ドル)
・コレコ:カートリッジ交換型「TELSTAR Arcade」、4種類の戦車ゲームで遊べるゲーム内蔵型「TELSTAR COMBAT」、「TELSTAR Alpha」、「TELSTAR Ranger」、「TELSTAR Colormatic」
マグナボックス:「オデッセイ2000(なぜかモノクロ表示に逆戻り)」、「オデッセイ3000」、「オデッセイ4000(カラーで8タイトル内蔵型)」
・Bally:「Bally Arcade(カートリッジ交換型、当時最先端CPU「Z80」搭載でBASICプログラミング可能)」(300ドル)
・アタリ:「ATARI STUNT CYCLE(4種類のバイクゲーム内蔵型)」、「VideoComputerSystem:VCS(カートリッジ交換型で200$)」

中でも業界トップのアタリが満を持して発売したVCSは、先行機のVESや価格の高さが影響して期待よりも売れませんでした。しかしアタリ初の家庭用機ホームポンの時と同様に大手百貨店シアーズの協力を得て地道に売り上げを拡大して行きます。(酷似した名前で出されたフェアチャイルド社は区別する為にVESの名称を「CHANNEL F」に改めます)

1976年にフェアチャイルド・セミコンダクター社が発売した世界初のROMカートリッジ交換型家庭用機「チャンネルF」の登場で、本体に内蔵されてそれ以上のゲームを遊べなかった本体内蔵型からゲームプログラムを内蔵したROMカートリッジを交換すればいくらでも違うゲームが遊べるカートリッジ交換型が主流になった際、ブッシュネルも自社で交換型の家庭用機を作ろうとしますが急成長したとは言え資金が心もとない事から会社の売却を検討します。

そして1976年にワーナー・コミュニケーションズがアタリを2800万ドル(100億8千万円)で買収(その内1300万ドルはブッシュネル個人の手に)し、1977年に念願のAtariVCS(VideoComputerSystem)Atari2600を発売します。
しかし発売直後は前述のチャンネルF(初めはVES:VideoEntertainmentSystemだったがVCSが出たので改名)とのシェア争いで売り上げが伸びず、ワーナーは繊維業界で実績を上げていたレイモンド・カサールを家庭用機部門のトップとして引き抜きます。

ただ、それまでブッシュネルやアルコーンが生粋のアタリ社員という意味で自らを「アタリアン」と名乗って自由な時間・服装・雰囲気で経営していた(会議はブッシュネル自宅でジャグジー風呂に入りながら等)のに対し、始業終業もネクタイもきっちりなビジネスマン然のカサールは新作のテストプレイもせずにひたすら事業拡張とVCSの売り上げ回復に注力します。

その後ブッシュネルが自ら提唱したVCS構想の規模縮小・中止を経営陣に提案しますがワーナー経営陣は激怒、更に生粋のアタリアンだけで会議を行った事がばれるとワーナーはブッシュネルを解雇します。(ちなみにこの1978年頃、マグナボックスからカートリッジ交換型でキーボード搭載でプログラムも出来る「オデッセイ2」が発売されます)

しかしブッシュネルもただでは追い出されず、ワーナーとの契約時に「退職金は自分から辞めたらもらえないがやめさせられた場合はもらえる」と取り交わしていた為に莫大な退職金を手にしてウハウハで退職、自ら設立したアタリ社をしっかり私腹も肥やしつつ6年足らずで去ります。

以降、カサール政権のアタリ社は完全に従来の自由な社風が一掃されて社員にはライバル社のスパイ根絶も目的にICタグ必須となり、生粋のアタリ社員達が提出した新作企画はほぼ没にされ、そればかりか次々に解雇されていきます。更に自分が担当していた家庭用機部門だけでなくアーケード部門にも経費削減を求め、チラシがカラーから白黒になったり新作が前年から半分になる等の嫌がらせに近い仕打ちを受けますが、結局社の利益はアーケード部門が稼ぎ、家庭用機部門はお荷物のままでした。

ちなみにここで解雇又は自主退職したアタリアン達は、1979年10月に「アクティビジョン」という会社を設立します。ゲームの作り方しか知らない連中をクビにしたってハード本体を作る工場も金も持たない連中なんか取るに足らないとアタリは気にもしませんでしたが、彼らはアタリのVCSが確立した家庭用TVゲーム市場を使い、今までとやる事は変わらないゲーム開発で反撃を開始します。

またこの年、世界初のカートリッジ交換型でIntel社の高性能CPUが搭載された携帯機MiltonBradleyCompany社「マイクロビジョン」が発売されます。が、高性能CPUの消費電力や設計時に携帯機の宿命である落下の衝撃を考慮しなかった為に故障が頻発、液晶画面表示も安定しないという不具合が重なって世界初のカートリッジ交換型の携帯機という栄誉のみであっという間に市場から姿を消します。

そしてこの頃、流行のカートリッジ交換型でなく従来の本体内蔵型据え置き機を発売してきたコレコビジョンでお馴染みのコレコ社も、携帯LED機のおかげで倒産はしないものの据え置き方では他社に押されて新作ゲーム機が売れなくなって来ていました

VCSの伸び悩みは1978年に日本で大ブームを巻き起こした「スペースインベーダー」をタイトーから許諾を受けて1980年1月にVCSへ移植すると、家庭用機で世界初のミリオンセラーとなる200万本超えの大ヒットになり、ようやくVCSの売り上げが上向きます。(これはVCSを日本で「カセットTVゲーム」という名で輸入販売していたエポック社からの提言で、カサールの数少ない功績の1つです)

胸を撫で下ろしたカサールでしたが、ここでクビにした社員達が作ったアクティビジョン社から思いも寄らない反撃を受けます。VCSの内部構造もゲームの作り方も熟知していた彼らは、1980年6月頃からVCSで動作するゲームソフトをアタリの許諾無く勝手に販売し始めたのです。

もちろんアタリは抗議しますが、アクティビジョン側は「ウチはたまたまVCSで動作してしまうプログラムが入ったカートリッジを売ってるだけで、それを買った客がVCSに差して遊ぶのは勝手ですから」というスタンスです。当時まだサードパーティという他社ハードで動作するゲームソフトを合法で販売する形態が存在していなかったからこそ出来た荒業ですが、アタリはこの対応に手間取り、前例も無い裁判は長期化します。

ちなみに1980年に発売されたライバル機にはマテルの「インテリビジョン(300ドル。16bitCPU搭載、CATV配信対応、日本でバンダイも販売)」があります。圧倒的な高性能が売りでしたが肝心のソフトラインナップで後手に回り、インベーダーを移植したVCSに敗れ去ります。

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こうしてアタリの売り上げはワーナーグループ全体の3分の1を占めるまでになり、生産が需要に追い付かなくなったアタリは生産台数の必要数を把握する為、1981年クリスマス商戦前の10月に販売代理店に対し次年度の年間一括注文を求めます。

次年度の更なる市場の成長を予想し、稼ぎ時に品切れは避けたい代理店は大量の発注を寄越し、アタリもそれを鵜呑みにして過剰生産に踏み切ります。しかし翌1982年、市場は供給過多に陥り代理店からキャンセルが相次いだアタリは大量の不良在庫を抱える事になります。

なぜ供給過多に陥ったのか。1つはVCSが人気過ぎて常に発注数を下回る入荷だった為に、小売店が売れそうな台数よりも減らされるであろう分を予測して発注台数を多めに申告した事。そして前述したアクティビジョンとの抗争が「ソフト1本売れる度にワーナー社に数%をロイヤリティとして支払う」という条件でこの1982年に和解した事がきっかけでした。

これによって「自分で本体ハードを作らなくてもロイヤリティさえ払えば他社ハードで動作するゲームソフトを作って売っても合法」という事になり、サードパーティが一気に押し寄せて半年でソフトの供給量が4倍近くになり、ネット販売も無い当時では店頭に並べ切れない程のタイトルが出回ってしまったのです。1年前には無かったサードパーティという販売形態が生まれたおかげで増え過ぎた在庫を捌き切れない代理店からキャンセルが相次いだ、という訳です。

こうして迎えたVCS二度目のピンチ、しかしここで再び日本から神風が吹きます。きっかけは1973年に設立した日本支社「アタリジャパン」が軌道に乗らず設立年にナムコへ買収された際、日本国内でアタリ製品を独占販売する契約が結ばれたのですが、VCSを海外へ売り出す際にこの契約が足かせになると判断したアタリは1979年に一方的にこの独占契約を破棄、当然怒ったナムコと裁判になった事です。

この裁判の和解目的で1980年10月に日本を訪れたアタリ業務用部門トップのジョー・ロビンズは、たまたまその年5月にナムコから発売されて大ヒットとなっていたアーケードタイトル「パックマン」を家庭用機に移植する許諾も取り付けたのです。

そしてこの許諾を知らなかったマグナボックスがオデッセイ2用にパックマンそっくりの「K.C.Munchkin」というタイトルをリリースして、かつてVCSインベーダー移植で復活した様にアタリに対して移植攻勢を仕掛けようとしましたがアタリに訴えられてしまいます。(これがコンピュータゲームに著作権があると認められた世界初の判例になります)

知らない所で進んだ移植話に社長のカサールは激怒しますが、このパックマンを1982年にVCS2600に移植した所、お世辞にも高いとは言えない移植度ながら1度目の神風となったスペースインベーダーの200万本を大きく超えるVCSソフト歴代最高の700万本をこえる大ヒットとなり、またもや日本製のゲームがVCSのピンチを救ったのです。

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そしてパックマンにピンチを救われたこの時期、ワーナー経営陣は2つの大きな判断ミスを犯します。

一つは劣化移植パックマンが売れてしまった事で「ある程度似たゲームにすれば多少出来が悪くても売れるんだ」と思ってしまった事、もう一つはVCSの人気にあやかって儲けたいだけのゲームを作った実績のない多種多様な企業がサードパーティ参入を申し出た際、「ロイヤリティさえ払ってくれれば誰でもどうぞ♪」とゲーム内容を一切チェックせずに承認してしまった為に、他社タイトルをコピーした物や中にはまともに動作しない粗悪ソフトが乱造されてしまったのです。

更にワーナー社自身も2000万ドル(約75億円)のライセンス料を払って得た映画「E.T」のゲームを6週間で制作した上に前述の事前発注制を取って500万本を生産、パックマン同様に「有名タイトルなら多少内容がつまらなくても売れる」という勘違いのままにクリスマス商戦の主力にすべく準備を進めます。

1982年当時に発売された主な家庭用機には以下があります。
・エマーソン「アルカディア2001」(世界各地に同仕様他名のハードが30以上存在)
・GCE「Vectrex」(200ドル。ベクタースキャンモニター付属。日本では「光速船」として販売)

アタリは1982年11月に「Atari5200(250ドル)」というVCSの後継機種を発売しますがVCSとの下位互換は無く、先代機で築いた優位な市場を生かせない上にこの機種のベースと同じ性能を持ちパソコンにもなる「ATARI400」を選ぶ人が多く、更に同年発売されたコレコ社の「コレコビジョン(200ドル)」にゲーム機としての性能も劣っていた事から低調な売り上げで、同年12月8日に第四四半期の利益を下方修正すると投資家に株を売られて翌日株価が1日で30%以上も暴落します。

しかもこのコレコビジョン、拡張パーツを付けるとアタリVCSのカートリッジも差して遊べてしまうという、かなりきわどい仕様でアタリユーザーを引き抜こうとしていました。更に同年「コレコジェミニ」というVCSと全く同じ性能のクローンマシーンまで発売、VCS市場を乗っ取る気満々でした。

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そして1982年のクリスマス商戦。主力商品としてコレコはコレコビジョン、マテルはインテリビジョン、そしてATARIは5200…ではなく相変わらずのVCSでした。なぜ5200を主力にしないかと言えば、これまでのVCS普及率が捨てがたいのと5200発売後にVCSで発売された「ピットフォール」がヒット作となり、小売店もこの売れ行きなら5200よりVCSの方が良いと多数発注したからでした。

ATARIも「E.T」が売れればまだVCSで戦えると思っていましたが、今でも粗悪ソフトの代表として扱われるほど内容が酷く500万本中売れたのは150万本、残り350万本をコンクリートで埋め立てて無かった事にしたり、他にも実際に15万ドル(約3500万円)相当の賞品がもらえる「ソードクエスト」のキャンペーンを行ったりとゲームの面白さを追求する以外の話題集めで迷走し、他の粗悪サードパーティと共にゲームの面白さを無視して粗悪ソフトを出し続けます。(しかもアタリはマテルを辞めてアタリに入社した社員が自社ハード用ゲームカートリッジをマテルのインテリビジョンでも動作する様に改造、自分がコレコにされた事を他社に仕掛けて裁判を起こされる始末)

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粗悪品を掴まされ続けて来たユーザーもこのアタリバッシングと共に怒りが爆発、アタリ以外のメーカーも含めて誰もTVゲームを商品として手に取らなくなり、日本と違って仕入れても売れなかった分は販売店がメーカーに返品出来るので(全ての小売店が返品出来る訳ではないです)返品が山となり、北米家庭用機市場が崩壊する「アタリショック」と呼ばれるTVゲーム業界に関わる人間全てが不幸になった悲劇が完成します。(日本ではアタリショックという名が有名ですが海外ではTVゲーム市場の崩壊という意味で「VideoGameCrush」とも呼ばれています)

翌年7月にカサールは赤字転落の責任とインサイダー取引疑惑から解雇。タバコ業界からジェームズ・モーガンが代わりに会長に就任し、1万人近くいた社員のリストラ等で徐々にアタリ社も回復します。が、日本からのヒット作も移植されて面白いゲームも増えてはいましたが、返品出来なかった小売店では通常30ドル前後のソフトが2~3ドルで投げ売られ、そんな状況では新規参入メーカーも定価で売れずに利益が出ず、そもそも聞いた事の無い新規メーカーが作ったゲームなんて誰も見向きはしませんでした。

更にこの頃メディア王ルパード・マードックによるワーナー買収攻勢でアタリの経営改善どころではなくなってしまったワーナーは家庭用機部門とパソコン部門の売却を決定、1985年にアタリはアーケード部門の「アタリゲームズ」とパソコン・家庭用部門の「アタリコープ」の2社に分割、アタリゲームズナムコが株式を購入して経営権を取得、アタリコープは元コモドール社長のジャック・トラミエルが買収、その後トラミエル・テクノロジー社に吸収されます。

ここで1983年7月に日本で発売されたファミリーコンピュータアメリカで販売すべく、任天堂がトラミエルにアタリ主導で販売して欲しいと持ち掛けますが、トラミエルはアタリをパソコンメーカーに模様替えしたかったのでこの話を拒否。(もしこの話を受けていればアタリも復活出来たでしょうに…)

その後、アタリに雪辱したコレコはコモドール64等のホームパソコン大ヒットを見てパソコン業界に参入。1983年に「アダム」という商品を発売しますが初期不良の多さで大不評な上にパソコン界の巨人IBM製品と発売時期が重なって全く売れないアダムは1985年に販売終了、8000万ドル(160億円)の損失を出して倒産の危機に陥ります。しかし全く別事業のキャベツ畑人形が1983年クリスマスに大ヒットして倒産は回避、翌1984年にはコレコビジョンの生産を中止してTVゲーム事業から撤退します。

そして同時期にマテルもTVゲーム事業から撤退、アタリショックをきっかけにトップメーカーの撤退が相次いだ上にホームパソコンの隆盛もあって、アメリカの家庭用TVゲーム機市場は1985年に任天堂がシアトルにアメリカ支社(NOA:Nintendo of America)を設立して海外版ファミコンNESNintendo Entertainment System)本体に同梱された「おひげのおじちゃんがキノコ食べながら亀にさらわれたお姫様を助けるゲーム」を子供達が手に取るまで完全に停止します。

アメリカ家庭用機市場を復活させた日本製ゲーム機

1985年1月、日本の任天堂という会社が作ったゲーム機がラスベガスで行われたCES(Consumer Electronics Show)で発表されます。名前はAVS(Advanced Video System)といい、コントローラはワイヤレスでキーボードと光線銃が付属でプログラミング機能を搭載していました。

しかし期待して集まった関係者からは不評でした。ゲームとパソコンの機能を併せ持つ機種が多く出回った挙句に売れず(特にコレコ社アダムの印象が最悪)、アタリショックによる業界消滅を体験していた事から「どっちつかずのゲーム機もどきなんてこれまでと同じじゃん」となってしまったのです。

しかし同年10月、任天堂はパソコン機能を排除して日本で大ヒット中だったファミコンとほぼ同じ機能を持つNESNintendo Entertainment System)を持って再度アメリカに乗り込んで来ます。

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「国内版ファミコンとの違い」
AtariVCSが実装せずに他社にコピー品を生産されるきっかけになった著作権保護システム「10NES」搭載(代償として拡張チップが使えずNESに移植出来ないタイトルも)

・本体とコントローラ、カセットの形状
ディスクシステム使用不可
・売り方として2種類がある。
「デラックスセット」:ロボット・専用ソフト・光線銃で249ドル
「アクションセット」:光線銃・ソフト2本で200ドル
(ロボットを優先的にセットにした理由として、販売店のTVゲーム機に対する拒絶反応を緩和する為に「これはロボットが付属しているので従来のTVゲーム機とは違いますよ」とアピールする目的があったとも言われる)

ニューヨークで売り出したところ大ヒットとなり、翌1986年には販路を全米に広げて展開すると、TVゲームに飢えていたユーザーの支持を得て実質ライバル機もいない中、荒野に舞い降りた救世主の如く着実にシェアを拡大して行きます。

しかし海外のメーカーに好きにさせてなるかとライバル機としてBitCorporation社からSEGA社SG1000とコレコビジョンの互換ハード「Dina2in1」が登場しますが日本国内でもファミコンに圧倒的敗北を喫したSG1000と3年前に出たハードを合体させた所でNESに太刀打ち出来る訳も無く、すぐに姿を消します。

そして任天堂の躍進をまた特別な感情を持って見ていたのがアタリでした。アタリはファミコン発売当初に任天堂からアメリカでファミコンを展開する際に協力を打診されていましたが、アタリが2社に分裂した際に家庭用機部門をパソコン部門に鞍替えする予定だった為に断っていました。そしてその結果がこの躍進を招いてしまった、もし協力していれば今でも業界に君臨出来ていたかもしれないのに…と。

という訳でATARIは家庭用機市場に復帰すると、NESやSG1000等と争うべく1986年に「ATARI7800」を140ドル(約35000円)で発売。更に同年過去の遺産を活かすべくVCSの廉価版「ATARI2600Jr」を50ドルの安さで発売します。(ATARI7800もVCSと互換を持ち、グラフィック性能はNESにひけをとりませんでした)

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しかし実はこのATARI7800、アタリショックとアタリ社分裂や社長交代などのゴタゴタで発売出来ずにずっと倉庫で眠っていた1984年に発売予定のハードでした。その為、倉庫で寝ていた空白の2年を研究に費やして発売されたNESとはグラフィック以外の性能では比較にならず、さくっとNESに敗退します。

次のライバルとして登場したのはセガでした。日本では「セガマークⅢ」まで発売していたもののファミコンに市場を制圧されてしまいましたが、まだ制圧されていないアメリカで好調だったアーケード市場のヒットタイトルを移植して行けば勝ち目があるんじゃないか、とこのマークⅢに改良を加えた「セガマスターシステム(200ドル)」として1986年に参入して来たのです。

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しかし、ある意味アメリカでは日本以上に話にならずにマスターシステムは惨敗しました。

当時毎年の様に新ハードを投入して下位互換も無かったSEGAマスターシステムの同時発売タイトルが2本しか揃えられず、対する任天堂は本体同時発売タイトルに現在でもソフト販売本数売り上げNo1の「スーパーマリオブラザーズ」を揃えていたのです。スーパーマリオがいなかった日本でも勝てなかったのに、マリオがいる上に遊べるのが2タイトルでは勝てる理由がありませんでした。

そんな中で迎えた1986年のクリスマス商戦。ATARI7800はソフト開発が難しかった事から先代5200の失敗を繰り返すかの様にソフトを揃えられず早々に敗退。セガもマリオに対抗して制作された「アレックスキッド」で勝負に出ますが、見た目だけなら任天堂も配管工のさえない中年で良い勝負とはいえ、作り込まれたゲーム本編の面白さでは到底太刀打ち出来ずNESの一人勝ちとなります。

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更に任天堂NESでソフトメーカーとサードパーティ契約を結ぶ際に「ウチのNESで出したタイトルを2年間は他社ハード移植禁止ね」と取り交わしていたので、セガATARIには中々ソフトが揃わなかったのです。こうして日本でヒットしたタイトルをNESに移植してソフトを充実させて行く任天堂との差は開く一方でした。

他ライバルゲーム機は駆逐し、パソコン市場も前述のコレコ社アダムや新出のApple社もこけていた為に当面はNESが順風満帆な状況でした。(ここでマイクロソフトアスキー等の複数メーカーが賛同した統一パソコン規格「MSX」を採用したパソコンも発売されましたがアメリカでは日本ほど規格を採用した機種が発売されず、やはり相手になりませんでした)

唯一張り合えたのは1987年1月に発売したコモドール社PC「Amigaシリーズ」で、16bitCPUを搭載したグラフィックで特に廉価版の「Amiga500(700ドル→85400円)」がゲーム機代わりとして支持を受けます。

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こうしてパソコンメーカーがしのぎを削る中で、ゲームとパソコンの部門を持つアタリが満を持して1987年に当時発売中の8bitパソコンを改良したゲームパソコン「AtariXE GameSystem(200ドル)」を発売します。しかし肝心のゲームソフトが数年前のパソコンで発売されたタイトルの使いまわしの時点でゲーム機としての魅力は無く戦う前に敗退します。

他にもWorlds of Wonder社のゲーム機「Action MAX(100ドル)」という光線銃専用でカートリッジでなくVHSテープでリアルな映像を流すという、従来と違うアプローチでグラフィックの向上を図りましたが、発売タイトル5本と光線銃のみという幅の狭さでこれまた敗退します。そして日本では最後まで勇敢に戦ってファミコンに負けたセガですが、アメリカでは別メーカーにマスターシステムの販売権を委託して被害を最小限にしてアメリカ市場から戦略的撤退します。

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セガ史上最高に健闘した家庭用ゲーム機
1988年、アメリカであらゆるライバルに打ち勝って来た任天堂NESアメリカ電話会社「AT&T」と協力して遠く離れた人ともゲームで遊べるネットワーク構想にも着手、日本同様に全土統一に向けて着実に歩み始めていました。

また、NESが来る前まで全米トップシェアだったアタリはNESの広大な市場をまずは足掛かりにすべく、自分達のアーケードゲームNESに移植する為に「TENGEN」という会社を設立します。(これもアタリという名前と同じく囲碁用語です)

しかし日本国内と同様にアメリカでも任天堂は各メーカーに対してNESで年間リリースできるタイトルを制限して品質の維持しようとしていた為に、これまでの豊富な自社タイトルをどんどん移植したいテンゲンは不満を募らせ、なんと勝手にNESを解析して任天堂の許可なくNESで動作するタイトル(当時アメリカで人気だったテトリス)をリリースしてしまいます。

これはもちろん任天堂も契約違反として裁判に発展しますが、そのタイトルも自分がアーケード版にリリース出来る権利しか持っていないテトリスを選んだ事も後に問題になってきます。

実はこの時、任天堂も1989年発売予定の携帯機「ゲームボーイ」にテトリスを移植すべく著作権を持つソ連まで行き、本家から家庭用版移植の正式な許諾を取り付けていました。これは複雑な話で、まずソ連からハンガリーにある「アンドロメダソフト」という会社がPC版のテトリス移植許諾を得ていましたが、それを拡大解釈してソ連から許諾を得ていない家庭用版も「大丈夫だろう」と持ってもいない権利を許諾、それを受けたテンゲンが「じゃあNESに移植しても良いよね」という経緯での話だったのです。

その後、任天堂ソ連に家庭用機版のテトリス許諾を得る交渉の席で「すでに海外では家庭用機版テトリスあるじゃない」とソ連に見せた事で、自分達が許可した覚えのない家庭用機版テトリスがすでにリリースされている事を知ったソ連は激怒、「家庭用機版テトリスを移植する権利はちゃんと直接交渉に来た任天堂だけだ!」と改めて発表、その会社から嘘の許諾を得ていたアタリが勝手に作った「NESテトリス」も販売差し止めになったのです。

テトリス販売許諾の流れ」(テトリスエフェクトという書籍が詳しいです)
テトリスソ連で開発されたゲームなので版権は国務機関のアカデミーソフトが所持。

アカデミーソフトがライセンス管理業務をエローグというソ連の貿易窓口企業に委託

ハンガリーアンドロメダソフト社がエローグに許諾を申請、却下され続けたがどうにかPC版テトリスのライセンスをもらう

イギリスのミラーソフト社がアンドロメダソフト社に家庭用・業務用テトリスのサブライセンス許諾を申請

アンドロメダソフトはエローグ社からPC版テトリスしか許諾されていないのに、ミラー社に家庭用・業務用両方のライセンスを出してしまう(これが悲劇のはじまり)

アメリカのアタリゲームズ社とその子会社のテンゲン社がミラー社に家庭用・業務用テトリスのサブライセンス許諾を申請してサブライセンス取得

日本のセガ社とBPS社がテンゲン社に家庭用・業務用テトリスのサブライセンス許諾を申請、サブライセンス取得(88年12月にBPSファミコンテトリスを発売)

89年にゲームボーイ発売を控えた任天堂が携帯ゲーム版テトリスのライセンスをアンドロメダソフトに申請するものの全く許諾が得られず(この時点でアンドロメダ社も事の重大さに気づいてエローグ社に家庭用・業務用テトリスのライセンスを申請中だったので当然)

らちがあかないと判断した任天堂は直接エローグ社に出向いてBPS社製のファミコンテトリスを見せつつ携帯ゲーム版の許諾を申請

ライセンスを出した覚えの無い家庭用テトリスの存在にエローグ社が驚愕・激怒してアンドロメダ社から一切のライセンスを剥奪

改めて任天堂がエローグ社から正式な家庭用テトリスのライセンスを受ける

…という経緯でアンドロメダ社がやらかしたせいで家庭用テトリスの正式許諾は任天堂のみが持つ事となり、自身の許諾が無意味と悟ったセガは発売を中止したのです。(BPSは改めて任天堂から家庭用ライセンスを取り直してファミコンテトリスを継続して販売しました)

まさか許諾を受けた会社が嘘をついていたなんて思いもしないだろう所はアタリに同情できなくもありませんが、その後の八つ当たりとも取れる「ウチラが作ったテトリスを販売停止に追い込んだ任天堂独占禁止法違反だ」と任天堂を訴えて来た対応に対しては「勝手にNESを解析してゲーム作っといて何言ってんだ」と任天堂アタリゲームズを契約違反や営業妨害等で訴えて泥沼の戦いになります。(結果は当然任天堂有利の判決になりました)

そしてこのテトリス著作権論争は日本にも飛び火します。日本では1988年にセガが業界初の16Bitマシン「メガドライブ」を発売して発売から5年経ち、さすがに性能で限界が見えて来たファミコンを追いつめており、その切り札として「メガドライブテトリス」をリリースしていようとしていたのです。そこにアメリカから飛び込んで来た「セガメガドラテトリスの許諾を得たアタリゲームズテトリス許諾で任天堂に負けて販売差し止め」のニュース。

という訳ですでに製造が終わり店頭に並べるだけの状態だったメガドライブテトリスもこの影響で販売停止。またしてもセガは落ち度と呼ぶのはあまりに運の無い形でファミコンの牙城を崩すキラーソフトを逃がしました。一方の任天堂ゲームボーイテトリスゲームボーイソフトの中で売り上げがマリオランドを抜いて一位となる大ヒットを飛ばし、まだインターネットも普及していなくて本当の事情を知る機会の無かったセガユーザー達は「任天堂が何か裏工作でメガドラテトリスを販売停止にしてテトリスを独占販売した」と思い込んでしまい、任天堂に勘違いな敵意を向けてしまいます。

ちなみにこのメガドライブは翌1989年にアメリカで「GENESIS」という名で登場、性能では大きくNESを上回りましたが、前述の「NESに移植したタイトルは2年間他社ハードで出しちゃダメ」という2年縛りで思う様にラインナップが揃えられず、発売当初は苦戦を強いられます。

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そうこうしている間にNECから日本で1987年に発売された「PCエンジン」が「ターボグラフィックス16」として200ドルでアメリカに登場。(CPUは8Bitでしたが一部の処理を16Bitで行っていたので、メガドライブの様に本体前面に大きくギリギリ嘘ではない16Bitロゴが入っていました。本体も日本のPCエンジンサイズで出せたのに「アメリカではでかい方が高性能に見えて受ける」という理由で無駄に大きいです)

こうした次世代機の攻勢に市場をほぼ独占していたとはいえNESも押されますが、1989年に発売された携帯機「ゲームボーイ」が89ドル(約12000円)で発売、しかもアタリとセガを間接的に追い込むきっかけになったあのテトリスを、本体同時発売タイトルとしてスーパーマリオランドと共に参戦します。実現可能だったカラー表示を敢えて採用せずにバッテリー持続時間を強化して手軽に持ち運べる上に衝撃に対する強度も十分、通信ケーブルで対戦も行えるゲームボーイは大ヒットとなります。

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同年アタリからも「Lynx」というカラー携帯機が180ドル(約22500円)で発売、最大8人での通信対戦が可能とかなり時代を先取りしていましたが、カラー液晶故に稼働時間が単三電池6本で約3時間と短い上に、重量も700gと子供が持つにはちょっとした重さである事から普及しませんでした。翌1990年にはNECからPCエンジンGTの海外版「TurboExpress」も登場、据え置き機の「ターボグラフィックス16」のソフトがそのまま遊べて発売初日から豊富なタイトルで遊べるのが強みでしたが、300ドル(約37500円)というゲームボーイの3倍以上という価格からやはり普及しませんでした。

こうして携帯ゲーム機という新たなプラットフォームが誕生したこの年のクリスマス商戦。ここでターボグラフィックス16は「ターボグラフィックスCD」という拡張CD-ROMドライブを発売、業界初の光ディスクという大容量と高音質のメディアで勝負に出ます。ただしこの拡張ドライブのみで399ドル(約5万円)というセレブ御用達な価格でNESのシェアを奪うまでにはなりませんでした。

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セガもアーケードの移植で対抗していましたが、やはり任天堂の2年縛り戦術や自社タイトルの移植だけでは厳しいと判断して、マイケルジャクソンを始めとする超有名人を宣伝に起用したりNESをこき下ろすCMを流すなどなりふりかまわない戦術を取ります。しかしやはりNESを追いかけきれず、市場シェアをそのまま反映する形でNESを巻き返すまでは行きませんでした。

ここでセガは、NESの看板タイトル「スーパーマリオ」を研究してスピードが欠けていると判断して高速スクロールアクションゲームの開発を決定し、任天堂と言えばマリオと言われる様な「セガと言えば〇〇」な看板キャラの確立に取り組みます。(この頃、大手ゲーム販売メーカーエレクトロニックアーツからジェネシス用ソフトをリリースしたいという打診を受けますが、EAは勝手にジェネシス本体を解析してロイヤリティの値下げを脅し半分で要求して来ます。断ればジェネシスの仕様を他社にバラされるかもしれないと思ったセガはしぶしぶこの要求を飲みます)

1991年、日本で1990年に発売されたスーパーファミコンの海外版「SNES」に向けて準備を進める任天堂任天堂ハード初となる拡張CD-ROMドライブ「プレイステーション」もSONYと提携して開発していました。しかしここで同じく日本で1990年に発売されてこの年にアメリカで販売された新たなライバル「NEOGEO」が登場、次世代はCD-ROMという風潮に逆行する従来のROMカートリッジでしたが、ゲームセンターの基板をそのまま家庭用として売り出して値段(本体650ドル:約82000円、カセット200ドル:約25000円~)は高いがゲームセンターのゲームが家でも出来るという売り1点のみで勝負を仕掛けます。

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そしてSNESがついに200ドル(25000円)で発売。本体同時発売にスーパーマリオワールドを持って来る盤石ぶりで、戦前の予想通り従来のライバル機を次々と蹴散らして行きます。

日本はこのままSNESNESを市場トップの座を引き継いで任天堂長期政権になりましたが、アメリカでは少し事情が変わりました。この年セガからGENESISで日本には存在しない、マリオに無いスピード感を追求してセガの看板キャラとなるべく「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が発売されたのです。

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そればかりかSNES発売に合わせてGENESISを190ドルから150ドルに値下げして当初10ドルだった価格差を50ドルに広げてお得感を演出、その上でマリオとソニックを露骨に比較したCMを流します。セガソニックのおかげでGENESISが売り上げでSNESを上回り、ついに日本で成しえなかった任天堂超えを果たします。

この勢いに乗ってセガは以前NESに尻尾を巻いて逃げた際に他社に権利を売り払ったマスターシステムの権利も買い戻すとこの先代機にもソニックを登場させ、過去の資産も活用します。またこの1991年にセガは「GAME GEAR」というカラー携帯機も150ドル(約18000円)で発売、カラー画面の宿命でやはり稼働時間が約3時間という短さでしたが、ここにもソニックを移植して従来のゲームボーイとGAMEGEARを露骨に比較するCMを連発、互角とは行かないまでも善戦します。

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しかし、初勝利に沸く中でも懸念は残りました。SNESに搭載予定の拡張CD-ROMドライブ「プレイステーション」です。これに対抗すべくセガGENESIS拡張用CD-ROMドライブの開発に着手します。奇しくもこの1991年はオランダ家電企業PHILIPSマグナボックス社「オデッセイ」の権利を買い取って「CD-i」(700ドル:約87000円)というCD-ROMドライブ搭載ゲーム機を発売する等、次世代の光ディスクメディアへの移行を機に家電メーカーもゲーム業界への参入を伺っていました。他にコモドール社からCD-ROMドライブ搭載のゲームパソコン「CommdoreCDTV(999ドル:約125000円)」も発売されました。(高価過ぎて自爆)

日本市場と違いセガに思わぬ一太刀を浴びた任天堂ですが、こんな時の為にと事前に発表していたSNES用CD-ROMドライブを発売すべく準備…はせず、突然前述のPHILIPSとのCD-ROMドライブ分野での提携を発表します。ずっとSONYと提携して作っていた「プレイステーション」はどうなってしまったんでしょう。

この突然のSONYとの提携破棄については色々と言われていますが、主に以下の理由が有力と言われています。

SNESにこのCD-ROMドライブが搭載された際、このドライブで動作するゲームについて任天堂の介入無くSONYの判断でサードパーティにタイトルを製造許可が出される恐れがあった

任天堂がこのドライブで動作するゲームを制作する際、動作部を担当するSONYに伺いを立ててSONY有利なロイヤリティを支払わなければならないという、自分が本体を作ったのに拡張機器メーカーにライセンス申請が必要という立場が逆転する状況になり、思い通りにゲームが作れなくなる恐れがあった。

この条件のままSNESが成功して世界に普及しまうと、ゲーム以外のアニメや映画など様々な豊富なコンテンツがこのドライブで再生出来る様になり、ハードの進歩に伴いゲーム機本体の機能でさえこのドライブで実現できてしまえばいつかファミコン市場ごとSONYに乗っ取られてしまうのでは…という考えに至ったのではと言われています。

そこでSONYには内緒で任天堂PHILIPS社と接触CD-i規格を普及させたいPHILIPS社は「天下の任天堂と手を組めばゲーム業界からCD-i規格を広められるのでは」という思惑があり、任天堂も単にSONY有利な契約を破棄したいだけで無く、PHILIPS社に依頼してCD-ROMのデータ規格もSONYの独自ではない自分達の独自規格でSNES拡張ドライブを製造出来る上に、PHILIPS社があるヨーロッパ市場進出の足掛かりとしてお友達企業を作れる訳です。

SONYとしてもここまで6年近くも任天堂と提携してハードも完成しているのに突然事実上の破棄を突き付けられて黙っている筈は無く、これまでの契約は破棄しないという任天堂と交渉を続けますが、頓挫は確実になってしまいました。手元に残されたのは繋がる相手を失くした拡張CD-ROMドライブのみ。

そしてこの提携話をずっと担当して来たSONY社員が「このまま任天堂のいいようにされてたまるか」とSONY初となる自社ゲーム機製造プロジェクトを立ち上げ、敢えて名前はそのままにゲーム機を発売する事になります。

1992年、初めて追う側としてアメリカ市場を迎えた任天堂SNESの価格を200ドルから180ドル(約22500円)に値下げします。すると一度値下げしたGENESISも「値下げとはこうやるんだ」とばかりに2度目の値下げ(150ドル→130ドル:約16000円)で対抗します。

ソフト面でもSNESは「神々のトライフォース」や「スーパーマリオカート」、「ストリートファイターⅡ」等の強力ラインナップで攻勢を仕掛け、挙句にはSNESが光線銃(バズーカ?)「スーパースコープ」を出せばGENESISも同じく光線銃(バズーカ?)「Menacer」で真っ向勝負を挑んで来るなど、文字通りなりふり構わない販売合戦を展開します。そしてここでGENESISの隠し機能が発動、なんと先代マスターシステムとの下位互換性を持っており、GENESISマスターシステムのタイトルも遊べる拡張機器「POWER BASE CONVERTER」を発売します。

任天堂も「プレイステーション出すよ」と告知だけして「ならそれが出るまでGENESIS製品買うのやめよ」とユーザに思わせる戦略で対抗しますが、自分からSONYとの提携を破棄した為に実際の発売は完全に未定で言葉のみでユーザを引き留めるのはいいかげん無理があるので、ここで2度目の本体値下げ(同梱ソフトとステレオケーブルを除去して180ドル→99ドル:約12000円)に踏み切ります。

任天堂にしてみれば儲け度外視な苦肉の策でしたが、なんと任天堂が2度目のSNES値下げを発表した翌日にGENESISも同じ99ドルに値下げ(同梱ソフトは除去)を発表、しかも任天堂プレイステーション出す出す詐欺をも逆手にとって「ウチは口先だけじゃなくて年内にGENESIS用拡張CD-ROMドライブ発売するからねー」とまで発表したのです。

そんなマッチレースの中でNECが従来のターボグラフィックス16とCD-ROMアダプタを合体させた「TurboDuo」を同じ1992年に300ドル(約37500円)で発売、任天堂セガが値下げ合戦をする中で価格の高さが目立ってしまいましたが、その後セガは宣言通り年内に拡張CD-ROMドライブ「MEGA-CD」を300ドルで発売。

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拡張機器なのにTurboDuoと同じ価格はまずいと思ったセガは掟破りな手段として初回生産分には300ドル分のソフトが買えるクーポンをおまけに付け、相変わらずのソニック人気も手伝って業界初のCD-ROMドライブ搭載機同士の戦いはセガの圧勝に終わります。(この敗戦でNECアメリカ市場から撤退します)

SNESも相変わらずの豊富なラインナップでGENESISと争いますが、ここでセガの真打ソニックヘッジホッグ2が登場、年末商戦の市場はソニック2一色となり任天堂は1992年も打倒セガに失敗します。

翌1993年、セガアメリカで当時6千万人が加入していたケーブルTVを仲介してゲームを配信する「SEGA Channel」の展開や電話回線でオンラインマルチプレイを実現する「Edge16」構想を発表、ソニックのアニメ化も発表されてはりねずみのスピード感そのままに次々と次の手を打ち出します。

一方の任天堂は自分からSONYとの提携を破棄してPHILIPS社とSNES用拡張CD-ROMドライブを出す出す言っていましたが結局開発中止。SNESの値下げも限界でGENESISの様に拡張CD-ROMドライブ搭載も出来ない厳しい状況に(自分のせいですが)追い込まれます。

そんな中でCD-ROMへのメディア移行を機に3DO社からポリゴン表示可能なゲーム機「3DO REAL」が700ドル(約87500円)で発売、しかも他社が3DO社とライセンス契約を結ぶ事で「〇〇社版3DO」という兄弟機を発売可能という戦略で市場の拡大を狙います。

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そしてこの3DOセガに思わぬ不幸をもたらします。この3DO社は以前セガGENESISを勝手に解析されて法外なロイヤリティ契約を結ばされたエレクトロニックアーツ社の前社長が設立しており、その為EA社のゲームがGENESISからでなく3DOのラインナップになってしまったのです。

といっても技術的な蓄積が無いポリゴン対応のゲームがすぐ作れる訳も無く、本体価格の高さもあって旧世代機なはずのSNESGENESISからの反撃で苦戦、最も世間から注目を集めるスタートダッシュに失敗した事でソフト会社から敬遠されて益々ソフトが発売されない悪循環に陥ります。(当初は年内40タイトルリリース予定でしたが、発売されたのは僅か10タイトル。事前にソフト提供を依頼していたナムコも余りの低調ぶりに別会社へソフト提供を始めてしまいます)

他にもPioneerからレーザーディスクドライブを採用した「LaserActive」が発売、反則技として別売りのオプションを付けるとGENESISとターボグラフィックス16のソフトがプレイ出来る仕様でしたが、970ドル(約12万円)という本体価格であっさり自爆します。

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1993年後半、GENESISSNESと互角以上に戦っていたセガは次世代32Bit機の開発に着手する為、任天堂に裏切られた復讐を胸に同じく32Bit機を開発していたSONYに提携を持ち掛けます。しかし先端技術を結集して3Dゲームに特化したゲーム機を作りたいSONYと過去のヒットタイトルを活用する為に2Dと3D両方のゲームを動作させたいセガと意見の折り合いがつかず、結局提携は実現しませんでした。

その後セガシリコングラフィックス社に話を持ち掛け、64Bit試作CPUを見せてもらい乗り気になります。しかしセガより早くこの会社を訪れ、すでにこのCPUに目を付けていたのが任天堂だったのです。

任天堂より早くシリコン社との提携を進めたいセガでしたが、決定権を持つ日本のセガ本社から「本当に32Bitを飛び越えていきなり64Bitを採用してうまく行くのか?」と慎重な検討を求められて思う様に話を進める事が出来なくなります。(日本ではすでにサターンを作ってましたし、それをいきなり一世代前にされる懸念もあったと思います)

結局セガはシリコン社との提携を見送り、シリコン社は任天堂と提携を発表、64BitCPUは「プロジェクト・リアリティ」という任天堂の次世代ハードへの搭載が決定します。

結局この年のクリスマス商戦も任天堂SNESセガGENESISの一騎打ちに。ソニック3で対抗するはずだったセガは(BGM担当のマイケルジャクソンのスキャンダルもあって)開発が間に合いませんでしたが、ソニックを中心に代わりにGENESISの廉価版「GENESIS-Model2」を99ドル(約11000円)・「SEGA-CD Model2」を230ドル(約25000円)で発売してお得感で勝負、一方の任天堂は歴代マリオタイトル(日本のスーパーマリオコレクション)詰め合わせタイトルや次世代描画技術のポリゴンチップをカセットに内蔵してSNESでポリゴン描画を可能にした「STAR FOX」等を主力に勝負します。

そしてどちらも残虐表現が売りの格闘ゲームモータルコンバット」を主力の1つに加えていましたが、任天堂が残虐表現処理をカットしたのに対し、セガもさすがに家庭用でこの表現はまずいと表面上はカットされていましたがなんと隠しコマンドで残虐表現処理が出現、この差もあってGENESISモータルコンバットの方が売り勝ちます。

更に「3」は間に合いませんでしたがCD版のソニックを発売、OPアニメやCD音質ならではのBGMと補償済みのゲーム内容でMEGA-CD初のミリオンヒットを記録、昨年に引き続きSNESとの勝負に勝ちます。

そしてかつての盟主アタリから業界初の64Bitマシン「Jaguar」が登場、16,32,64と3種類のCPUを搭載する豪華さでしたが、そこにお金をかけ過ぎたのかインタフェースが貧弱でコントローラが持ちにくく、本体接続端子からしょっちゅうケーブルが外れてしまうという基本過ぎてしょうもない欠陥を抱えていました。更に複数CPUを搭載した事で内部仕様が複雑になり過ぎてソフト会社のゲーム制作にえらく時間が掛かってしまいスタートダッシュに失敗、ほぼ自爆状態になります。

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明けて1994年、シリコン社と64Bitマシンを開発中でもうしばらく時間が必要な任天堂NESの豊富な資産を活用すべくAV端子対応版NES(ModelNES101)を49ドル(約5500円)で発売、セガGENESISMEGA-CDを一体化した「GENESIS CDX」を400ドル(約45000円)で発売。

コンパクト化を優先してコストダウンが図れず値段が高めになり、代わりにソフトを3本付けるおまけ+昨年クリスマスに間に合わなかったソニック3や日本と違いSNESより優位に経っていた事で徐々にサードパーティも増え、任天堂ハードでのみ出ていたロックマンアメリカではメガマン)やストリートファイター等の援軍も登場して売り込みます。

おまけが良かったのかNES101より注目されたGENESIS CDXでしたが、ここでかつて任天堂SONYと別れてCD-ROMドライブ開発で提携したPHILIPSから「CD-i 450」というゲーム機が300ドル(約33000円)で発売されます。任天堂と提携していた強味を活かしてなんとマリオやゼルダが登場するソフトがプレイ出来るという、劣勢なSNESを助ける援護射撃的なハードとして参戦します。

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しかし蓋を開けてみれば中身はゲーム内容は全く別物でただマリオやゼルダが登場人物に出てくるだけでゲーム本編も微妙という「実は援護射撃でなくキャラを借りて援護してもらってた」ハードだと分かると後に「〇〇ゲーしかなかったハード」という史上稀に見る称号を獲得して瞬く間に姿を消します。

次世代機はまだ先、起死回生のソフトも無く援護してくれると思ってマリオやリンクを貸したPHILIPSハードは史上最低レベルの烙印を押されて逆にブランドを低下させてくれる始末。いよいよ対抗手段が無くなって風前の灯だった任天堂。しかしここでゲームボーイからSNESゲームボーイソフトが遊べる「スーパーゲームボーイ」が60ドル(約6500円)で登場、今度こそ本当に援護射撃を得ます。

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しかし援護と言っても結局過去の資産をプラットフォームをまたいで使えるだけで、これだけでピンチを脱するのは無理がありました。なにか目玉ソフトを用意しなければ…そんな中でイギリスの大手ゲーム会社「レア社」が出していたSNESとは思えない描画表現のタイトルに目が留まった任天堂はなんとレア社の株式を買収して傘下に吸収、セカンドパーティとして任天堂キャラを使ったソフトの開発を命じたのです。

一方のセガは日本で発売予定のセガサターンアメリカで展開する事に躊躇していました。理由は日本ではSNESに敗れてGENESISメガドライブ)があまり売れなかったので次世代機で勝負するのは普通の事でしたが、アメリカではGENESISSNESを上回る売り上げを見せていてここまで育った市場を簡単に切り捨てて次に行くのは勿体無い事、もう一つは次世代32Bitの先駆けだった3DOが伸び悩んでいるのを見るとまだサターンをアメリカに投入するのは早いのでは?という事です。

「それではここまで市場に根付いたGENESISを活用して次世代機を生み出せないか?」

という事で11月にGENESIS拡張機器としてセガサターンと同じCPU(SH-2×2)を搭載してSEGA-CDと連動出来る「SEGA 32X」を11月に160ドル(約18000円)で発売します。(更にソニック3の後編を収めたカートリッジも発売、前半のカートリッジと合体させて前後編の完全版ソニック3になるという合体尽くしでした)

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1994年のクリスマス商戦、セガはSEGA32X発売前に合体ソフトのソニック3で勝負に出ますがSNESに返り討ちに合います。「SEGA32Xと合体出来ないGENESIS CDXじゃ仕方ない。32Xと合体した他の兄弟GENESISならば問題無い」とセガ陣営は思っていました。

前評判通りにSEGA32Xと合体したGENESISJaguarや価格を300ドル(約33000円)に下げた3DO REALに売り上げで上回るセガ、残るは唯一の16BitマシンSNESだけでしたが、そのSNESに思わぬ善戦を展開されます。最大の理由は任天堂が買収したレア社と共同開発して1500万ドル(16億7千万円)という膨大な広告費を掛けた「DonkeyKongCountry」でした。

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SNESとは思えない次世代機に匹敵するグラフィック、主人公には任天堂タレントのドンキーコングを使用したこのソフトを中心に「スーパーメトロイド」や「MegamanX2」、「スーパーパンチアウト」等を揃えてハードの性能向上で勝負したセガに対してソフトの面白さで勝負して来たのです。

DonkeyKongCountryとSEGA32Xの対決の結果は…

DonkeyKongCountryが1ヶ月で250万本を出荷する大ヒットだったのに対し、SEGA32Xは約50万台。ソフトとハードの台数をそのまま比べてもあまり意味はありませんが、50万台という数字はセガの予想を大きく下回るもので、SEGA32Xの部品が日本で発売予定のセガサターンと同じ部品を使っていた為にサターン製造用に確保されて十分な在庫を用意出来なかったのが主な理由でした。

明けて1995年、DonkeyKongCountryのヒットのおかげでSNESを延命と共に「まだまだSNESで面白いゲームが出るんだ」と市場にアピール出来た任天堂はシリコン社と提携して開発中の「プロジェクト・リアリティ」から名を改めた「ウルトラ64」の発売延期を発表します。SNESの底力を見せられた事で、お得意の「64出すよ出すよ詐欺」でユーザに他社ハードを買い控えさせて「それなら任天堂の次世代機が出るまでSNESで遊んでいよう」と誘導する為です。

一方、昨年末にSNESから思わぬ抵抗を受けたセガはSEGA32Xの売り上げが落ちる一方でした。日本で発売予定のサターンの噂は徐々にアメリカでも広まっており、「日本で正統なセガの32Bit次世代機が出るならSEGA32Xってのは何なんだ?それならその次世代機が発売されるまで待ってた方が良くないか?」という考えからでした。

SEGA32X用にソニック外伝タイトル「Knuckles'Chaotix」を発売したり、GAMEGEARに続く携帯機としてGENESISのカートリッジをそのまま挿して遊べる「NOMAD」を180ドル(15000円)で発売するなど挽回を試みつつ、発売が延期されたウルトラ64や日本で発売されたプレイステーションが出てくる前に市場を先行して牛耳って置こうという思惑からセガサターンアメリカ発売をこの年9月に前倒す事を決めます。

しかし、このサターン前倒し発売は「昨年11月に出たSEGA32Xが1年も経たずに今年9月で旧世代機となる」というSEGA32Xを買ってくれたユーザへの裏切りそのものでした。

ちなみにこの1995年5月から今でも世界最大のゲーム見本市である「E3」(Electronic Entertainment Expo)が始まり、このイベントでセガは9月発売予定のセガサターンについて発表するんだろうと集まった観客は思っていました。しかしセガの発表はそんな聴衆の予想より遥か斜め上を行く物でした。

「えーこれまでサターンを9月に発売するとお伝えして来ましたが、大手玩具チェーン4つの店舗に限り本日から販売を開始します」

誰もが予想しなかった方法で大きなインパクトを与えた発表した当日に販売開始という手法でサターンを400ドル(約45000円)で発売したセガ。しかしこのインパクト重視な行動が先行販売から漏れた小売店からは「結局大手チェーンびいきかよ、もうウチからセガの製品なんてなくしてSNES並べてやる」と陳列棚からセガ製品を撤去するお店が出る等、各方面から反感を招きます。

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そんな混乱を尻目に次に発表の場に立ったのはSONY。世界に名だたる家電メーカーのゲーム市場初参入となるプレイステーションアメリカでも評判になっていましたが、まずその価格が他社の3DOが700ドル、サターンの400ドルに対して300ドルと発表して度肝を抜きます。

そんな発表を尻目に、セガはとにかくプレイステーションが発売されるまでのこれから4ヶ月の間にどれだけ有利な市場を築けるかが至上命題となります。(ちなみにアタリはJaguarの拡張機器にVRや拡張CD-ROMドライブを、3DO社は3DOの後継64Bit機「M2」を発表しました。ウルトラ64を延期した任天堂はあまり印象に残れませんでした)

そして1995年9月、本来発売するはずだった月になってサターンは大手4社以外の全米でサターンを展開、「ここから全米でサターン旋風を起こすぜ」とばかりに値段は400ドル据え置きでしたがソフトを3本おまけで付けるキャンペーンでこの月に出るプレイステーションをけん制します。

そしてついにプレイステーション発売。3DOの後継M2が10月に発売延期してライバルが少なかったことも幸いして、サターンが先行した4ヶ月など無かったかの様にすさまじい売れ行きを見せます。これに焦ったセガは値段を一気に100ドル下げてプレイステーションと同じ300ドルにして張り合おうとしますが、今回ばかりはこれまでとは状況が違いました。

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まずSNESを上回るGENESISを売りさばく原動力となったソニックがサターンで用意出来なかった事、更に短期間にSEGA32Xからサターンに移行した事でゲーム開発会社では「SEGA32X用にゲーム作ってたのにすぐにサターン用のゲームなんて作れる訳無いだろ。SEGA32X用の開発機材買い取れ」という苦情が巻き起こります。

ユーザも「去年2万円近くしたSEGA32Xを買ったばかりなのにもう次世代機出すの?!それなら最初っからサターン売っとけよ、もうセガの言う事なんか信じられるか」とサターンを前倒し販売して開発メーカーやユーザを混乱させたツケがここで回って来ます。

ここで先のE3で発表していたアタリのJaguar用CD-ROMドライブ「JaguarCD」が発売、業界初のCD-ROMドライブを搭載した64Bitマシンとなり、他にJaguarVRや拡張でなくCD-ROMドライブと一体型の「JaguarDuo」も発売されます。ですが結局売れたJaguarは25万台ほどで、本体が売れなければ拡張機器のVR等も売れず開発中止となり、これを機にアタリはハード事業から撤退します。



(以降不定期で追記)

 

1987年(昭和62年):ハドソンとNECの新ハードとスクウェアの「夢」

「発売された主なゲーム」

・1/14 リンクの冒険
・1/26 ドラクエ
・6/21 イース 失われし古代王国
・6/26 燃えろプロ野球
・10/26 桃太郎伝説
・10/30 PCエンジン
・10/30 ビックリマンワールド
・11   セガマスターシステム
・11/21 THE功夫
・12/1  中山美穂のときめきハイスクール
・12/18 ファイナルファンタジー
・12/20 ファンタシースター
・12/22 ファミスタ87

ヒットタイトル:
リンクの冒険  161万本
ドラクエⅡ   241万本
燃えろプロ野球 158万本
ファミスタ87 130万本

ゼルダの伝説の続編
ディスクシステムソフト第一弾『ゼルダの伝説』の続編として作られた「リンクの冒険」が年明け早々に発売されます。ディスクシステムの性能を限界まで引き出す事に挑戦したと宮本氏は語っており、成長したリンクや敵キャラを前作より大きなサイズで動かす試行錯誤を繰り返したそうです。

前作は見下ろし型のマップを移動しつつ敵が出現して戦うというマップ移動と戦闘シーンでの区別がありませんでしたが、今作はマップ移動時のみ見下ろし式でマップ移動中にシンボル化された敵に接触すると横視点横スクロールアクションの戦闘シーンに切り替わるシンボルエンカウント方式になっています。

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前作はガノンに奪われた力のトライフォースに対抗出来る知恵のトライフォースのかけらが隠された8つの迷宮を巡回して欠片を集めてガノンを倒すシナリオでしたが、今作は目覚めない眠りの呪いに掛けられた初代ゼルダ姫を目覚めさせる為に必要な「力」・「知恵」・に次ぐ第3のトライフォース「勇気」のトライフォースが眠る大神殿への封印を解く為に、6ヶ所の神殿にある聖なる石にクリスタルをはめて行く…という物でした。

前年発売されたドラクエのヒットによるRPGブームの影響なのか、主人公のリンクには敵を倒して経験値が一定値以上貯まると攻撃力・魔力・体力のいずれかを選んでレベルアップして行く育成システムが実装されました。

ただしGameOverになると3要素の内で一番低いレベルの要素に戻されてしまい、例えば攻撃Lv4、魔力Lv3、体力Lv2の状態でGameOverになるとコンティニュー後は全ての要素がLv2になってしまうので均等にLvを上げる必要がありました。

今回はリンクが成長して頭身が高い為に戦闘も上段と下段の防御を使い分けたり、後半の敵の強さや広大な迷路等、後に発売されるシリーズでも屈指の難易度と言われています。

ちなみにある町の墓地を調べると「ユウシャロト ココニネムル」とドラクエ主人公の墓が見つかります。更に年末にスクウェアから発売されたファイナルファンタジーでは「リンク ここにねむる」という墓があり、メーカーを超えたお遊びを見つける事が出来ます。

■竜退治の続編

家庭用TVゲーム機初の本格的RPGとして昨年5月に発売された「ドラゴンクエスト」から半年、続編の 「Ⅱ」 がこの年1月に発売されて前作の100万本ヒットの勢いそのままに各地で行列・売り切れが続出します。

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RPGといえばドラクエ」として揺ぎ無い地位を築き、その後ドラクエを参考にしたゲームが次々と発売される中で続編もまた大ヒットとなります。ただ、半年というあまりに短い開発期間からオープニングからラスボスがいるエリア(ロンダルキア)まで通してテストプレイが出来ないまま発売となった為に全体的な難易度バランスが取れていませんでした。

その為、物語終盤のロンダルキアへ通じるラストダンジョンからラスボスまでに遭遇する敵の強さはシリーズ中最高の難易度と言われ今でも伝説となっています。

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しかしこのゲームにはもっと恐ろしい敵がいました。
まだカセットにセーブ出来る機能が無かった当時、ドラクエには本体の電源を切っても続きがプレイ出来る様に「ふっかつのじゅもん」というパスワードが採用されていて、当時の勇者達はそれをノートに書き写して冒険を続けていました。

しかし前作の20文字から52文字と倍以上にじゅもんが増えた為にノートに写し間違えたり眠い中で書き取った文字が翌日判別出来ずに続きをやろうと思ってじゅもんを入力したら

「じゅもんがちがいます」

と表示されて前日進めた冒険が無かった事になる悲劇が多発して「ラスボス以上の敵」として全国の勇者達を震え上がらせました。

また、このじゅもんを入力する時に流れるBGMに歌詞を付けた「LoveSong探して」という曲も発売され、この曲を歌う沖縄アクターズスクール出身で当時15歳のアイドル歌手、牧野アンナと同じ名前を持つ「歌姫のアンナ」というキャラをゲーム中で探してレコードの応募券と画面写真を送ると景品がもらえる「アンナを探せキャンペーン」という企画も実施されました。

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ちなみにゲーム中で歌姫アンナに話しかけるとBGMが通常の物から「LoveSong探して」に切り替わります。(当時この曲はオリコン33位。牧野氏は引退後アクターズスクールのチーフインストラクターとして安室奈美恵やMAX、SPEED、DA PUMP知念里奈等のアーティスト育成にあたられたそうです)

とにかくドラクエⅡの難易度は別格でしたが、攻略法の通りに操作する技術や反射神経が必要なアクションとは違い、RPGは時間をかけて主人公を強くすればまず誰でもクリアできるジャンルだったために「アクションは苦手だけどRPGなら」という新たなユーザー層を開拓します。

セガマークⅢの拡張版

元々「セガマーク3」の海外版だった「セガマスターシステム」(¥16800) が日本で発売されます。国内セガユーザーから強く要望が上がっていたFM音源と当時のシューティングゲームブームから連射機能を海外版マスターシステムに追加して発売されました。

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しかし 「セガマーク3」 同様、ファミコンがあまりにも完璧に子供達の心を掴んでいた事と、またしてもサードパーティ参入に手間取り日本国内ではごく一部のセガファンを歓喜させて終わりました。

また、この年マークⅢでセガは初の自社製RPGファンタシースター」を12月に発売します。3つの惑星を渡り歩く壮大なSFファンタジーで当時は珍しかった戦闘シーンの敵アニメーション等、これ以降に発売されるセガの家庭用TVゲーム機でも続編が発表され、人気シリーズとして現在でも関連タイトルのリリースが続いています。(Wiiバーチャルコンソール600ptで購入可能です)

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ちなみにこのタイトルはどこでもセーブ可能になっています。大変便利なのですが、ダンジョンの奥深くでパーティ全員が瀕死の状態で脱出手段も回復アイテムも無い状態でセーブしてしまうと、再開してもどうしようも無い状態なので最初からやり直しになるという恐怖の仕様でした。

初のRPG制作でセガも不慣れだったとはいえ、やり直した当時のプレイヤー(アリサ)達に、合掌。

■6/21 今、RPGは優しさの時代へ

↑をキャッチコピーにして、PC8801というパソコンで日本ファルコムから「イース」というアクションRPGが発売されます。

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当時パソコンのRPGファミコン等の家庭用TVゲーム機のRPGよりも内容が挑戦的で、普通にプレイしたのでは解けない様なストーリーと全く関係ない謎が入っているのが普通で圧倒的に難易度が高いのが特徴でした。

しかし「イース」はキャッチコピーの通り、謎解きのヒントを必ずゲーム中に配置して「誰でも解けるけど優しい訳ではない」という考えれば解ける絶妙な難易度で「RPGは理不尽な謎解きで難しくする必要はない」という姿勢を提供します。

ゲームバランスに重点を置いた作風は一部のマニア達のものだったRPGを一般のユーザーに開放したとまで言われ、その後のRPGに大きな影響を与えました。またゲームバランスだけでなくBGMや登場キャラにもファンが多く、当時はまだ珍しかったOVA・小説・漫画等の様々なメディアミックス展開が行われて「ファルコムショップ」というメーカー直営のキャラクターグッズ専門店で販売される等、関連グッズ商法の方向性も示しました。

イース発売後)
当初の企画では『I』と『II』の両方を含むものでしたが、フロッピーディスクが予定枚数に収まらない事とスケジュールが間に合わない事から急遽最終面としてダームの塔を付け加えて『I』として発売されました。その為に最終面のダームの塔はレベルアップの要素が全く無いアクションゲームになっています。

当初の予定と違う内容ながら、当時『ザナドゥ』でユーザーから絶対的な信頼と人気を得ていた事から本作も大ヒットとなり、本来後半部分だった『II』の制作が決定します。しかし当時ファルコム経営陣とイース制作スタッフの人間関係が悪化しており、マップ・キャラクタ・マニュアルのイラストなどを担当していた都築和彦氏や音楽担当の古代祐三氏等がファルコムから離れて行きます。

その後イースとは関係なく提出したタイトルの企画を、『イース』シリーズの続編として売り上げを期待したい経営陣が『イースⅢ』として制作指示を出した事で経営・制作間の亀裂が決定的となります。

『I』からディレクションゲームデザイン・メインプログラム担当だった橋本昌哉氏とシナリオ担当の宮崎友好氏がファルコムを去り、この時点で主要制作スタッフがほぼファルコムからいなくなります。ファルコムを離れた主要スタッフ達はその後、1989年に「ゲーム制作はプログラマー・企画・グラフィック・サウンド・プロデューサーの5重奏で奏でられるもの」という意味で、音楽用語の五重奏を意味する「クインテット」という制作会社を設立します。

イースI・II』のシナリオライターだった宮崎友好氏とメインプログラム担当だった橋本昌哉氏、そしてサウンド担当だった古代祐三氏が結集してスーパーファミコン発売1ヶ月以内の最初期ソフトとなるアクションとシミュレーション2つのパートからなる『アクトレイザー』や、アクションRPGソウルブレイダー』・『ガイア幻想紀』・『天地創造』等を発売します。(発売元はエニックス

作品独特の世界観や、イース時代から『今までのゲームサウンドは何だったんだ』とユーザーに衝撃を与えた古代氏のオーケストラ調サウンドは当時のユーザーから高い評価を受けます。しかし2000年を境に同社の名前はゲーム業界で見なくなり、自然消滅する形で活動を停止しています。

■10/26 王道おとぎ話RPG出陣

ハドソンからファミコンRPG桃太郎伝説」が発売されます。
監督のさくまあきら氏は当時、週刊少年ジャンプで読者おたよりコーナー「ジャンプ放送局」を担当していました。そしてこの頃は大学時代の友人である堀井雄二氏が製作した『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』が行列ができる程の社会現象で品薄となっており、購入できなかったさくま氏は堀井氏の元へソフトを貰いに行こうと考えます。

しかしジャンプ放送局のイラスト担当だった土居孝幸氏の家の方が近い事から土居氏に借りに行った際に「俺たちもゲーム作りたいね」という話になり、さくま氏の鉄道好きを生かして「新幹線殺人事件」という推理アドベンチャーを提案します。しかし土居氏は乗り物や機械を描くのが嫌だった為に難色を示し、それらが登場しない昔話の世界観を提案します。そして友人の堀井氏が作ったドラゴンクエストから、

竜王を倒すのって桃太郎っぽいね」

ジャンプ放送局で担当者を桃太郎・金太郎・浦島太郎に見立てた“太郎ズ”の絵が描かれているけど、地名を金太郎の村、浦島の村にしたら分かりやすいよね」

…等と話が弾み、堀井氏からも「ゲームは儲かるし借金も返せるよ」と言われた事や、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ』の発売日が当初の12月から翌年に遅れる事を事前に教えてもらった事で「12月より前に発売すればそこそこ遊んで貰えるかも」という思惑を抱いて桃太郎をベースにしたRPG製作の話が具体化して行きます。

この企画をどこに持ち込もうかと悩んでいたとき、カニとウニとイクラがうまいし、知り合いのスタッフに蟹を食べに行こうと声を掛けやすい」という理由で本社が北海道だったハドソンを製作元に決めます。(ちなみにハドソンに提出した企画書はわずか8ページだったとか)

更にさくま氏は『ジャンプ放送局』に毎週何万通と寄せられる投稿者のギャグやネタの面白さを利用しようと、ゲームに転用できるアイデアを購入者にも成り得る投稿者から募ることを提案、ジャンプ放送局に特集コーナーを設けて読者から多くのアイデアを募りました。ちなみに80年代当時の少年ジャンプは、

 北斗の拳
キン肉マン
ドラゴンボール
こち亀
シティハンター
キャプテン翼
聖闘士星矢
ジョジョの奇妙な冒険

 …等々、どこを読んでもハズレがない黄金期を迎えており、読者層とゲームのターゲット層が一致したこれ以上ない宣伝媒体でした。またアイデアを出す投稿者達にも一緒にゲーム製作に参加しているんだという連帯意識が生まれ、アイデアが採用されるとエンディングクレジットに名前が表示された事から、プロの開発者でも驚く一般視聴者ならではのアイデアと十分過ぎる宣伝効果を得ます。

しかし事前にゲームを製作出来るノウハウを持ち、エニックスのプログラムコンテストで入賞してゲーム業界に入った堀井氏と違い、さくま氏はゲーム開発経験がなかった事から堀井氏にテストプレイをしてもらってアドバイスを受けたり、戦闘シーンのダメージ計算や敵の行動アルゴリズムが出来ていない事を担当者に指摘された際、ゲーム開発者でも何でもない広告代理店の担当者にお金を渡すと

「じゃドラクエⅠとⅡ買ってプレイして、戦闘システム解析して計算式作ってくれる?」

と冗談の様な無茶振り。しかしこの無理難題を押し付けられた広告代理店の担当者が何と本当に戦闘システムを解析して計算式を作成、システムに組み込んでしまいます。これで「こいつ使える」とさくま氏&ハドソン開発陣に目をつけられてしまったこの担当者はその後もハドソンのゲーム開発に度々駆り出されて類稀なゲームデザイン能力を発揮して自分が所属する会社に戻れない日々が続いてしまい、遂にはそのままゲーム業界にデビューしてしまいます。

ちなみにこの担当者は桝田省治(ますだ しょうじ)氏で、後にハドソンで家庭用TVゲーム機初のCD_ROMを採用した大作RPG天外魔境」では監督を、そしてその後も

メタルマックス
リンダキューブ
ネクストキング恋の千年王国
俺の屍を越えてゆけ

等のヒット作を生み出して行きます。

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■ソフトはハドソン、ハードはNECのゲーム機が発売

10月に家庭用TVゲーム機 「PCエンジン」 が¥24800で発売されます。

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ハドソンと言えばファミコン初のサードパーティとして、ロードランナーやナッツ&ミルク等のヒット作を送り出したゲーム開発メーカーというイメージが強いですが、実はファミコンの周辺機器 「ファミリーベーシック」 用のBASIC言語を開発したり、シャープ製パソコンのBASIC言語やOSを開発していたりとソフトウェア全般の開発で定評のあるメーカーでした。

ファミコン初のサードパーティとしてファミコンの躍進に大きく貢献して業績を上げたハドソンですが、本来持っていた技術力の高さからソフト開発においてファミコンに搭載されたCPU性能では物足りなくなって来ます。

ファミコンで結構儲けたし商売抜きでCPUでも作ってみようと半導体メーカーのセイコーエプソンに依頼、約2億円を掛けてオリジナルCPU「Hu-7」を製造します。(自己満足の為に2億使ってしまう所に当時の羽振りの良さが伺えます)

こうして希望通り描画能力でファミコンの数段上の性能を発揮する自社製オリジナルCPUを手に入れたハドソンは、予想以上の出来だった事からこのCPUを使った商品開発の話をいくつかのメーカーに持って行きます。

以前シャープ製パソコン開発の仕事をした経緯からシャープに話を持って行きますが、シャープはゲーム&ウォッチ用液晶開発の頃から他社で唯一のファミコン互換本体「ツインファミコン」の製造を許される位に任天堂と懇意にしていた為に断られます。(ちなみに「ファミコン」という呼称は元々シャープが家電製品で申請・取得していてそれを任天堂に譲ったなんていきさつもあります)

その後以前からゲーム機開発を考えていたNECと投合、話をした翌日にはNEC担当者がハドソンを訪ねて来ました。ちなみにハドソンを訪ねて来たNECの後藤富雄氏はNEC初のパソコン「PC-8001」や「PC-8801」・「PC-100」等の開発に携わったNECパソコンビジネスの中心的存在だった人物です。

当時後藤氏はパソコン事業部からグループ企業のNECホームエレクトロニクスに出向しており、ファミコンの隆盛を見ながらコンピュータの新しい可能性を求めてCD_ROMを使って映像や音楽等のメディアを統合して使える家庭用知育&ゲーム機の開発を検討していました。

しかし当時まだ珍しかったCD_ROMドライブを搭載するとどうしても小売目標額の10万円を切れず、またゲーム機に適したCPUを設計する技術も無かった為に開発が停滞していました。そんな時にハドソンからCPUを作ったから見て欲しいと言われたのです。

更にハドソンはソフトメーカーとしてもファミコン最初期のサードパーティとしてヒットタイトルを多く抱えていたので、NECから見れば「ゲーム機開発に適したCPU」と「人気タイトルを持つソフトメーカー探し」という2つの問題が同時に解決する事になります。

こうして互いの望む物を補い合う形でPCエンジンが誕生しました。ちなみに「Hu-7」を元にPCエンジンに搭載されたチップセットは「HuC62」と言います。チップセットの「Hu」はハドソンの頭文字で「C62」は鉄道ファンだったハドソン創業者の工藤裕司氏が好きだった「C62型蒸気機関車」に由来します。(ちなみにハドソンという社名もこの蒸気機関車の車軸配置が「ハドソン型」と呼ばれる所から来ています)

メインCPUはファミコンと同じ6502のカスタムチップで8bit性能でしたが、その性能は約4倍、更に描画処理用のサブチップは16bit処理を実現していました。その為グラフィック能力はファミコンとは比較にならないクオリティを実現してファミコンでは移植不可能だったアーケードタイトルが多数移植されます。

更にPCエンジンはゲーム機に留まらずに 「家庭内コンピュータ」 を目指すNECの意向から、様々な周辺機器を接続して使用する 『コア構想』 というコンセプトが盛り込まれ、プリンタやスキャナー等が発売されました。

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■最後の夢

この頃、1983年に設立したスクウェアは設立4年目にして倒産寸前の危機に陥っていました。1984年のPC用ゲームリリースを皮切りに1985年からはファミコンにも参入、1986年に発売されたディスクシステムでは当時PC用ゲームを主に開発していたメーカー7社と共にDOG(DiskOriginalGroup)というブランドを結成してROMカセットよりコスト面でリリースがしやすいディスクシステム用タイトルを積極的にリリースします。

しかし、先に述べた様にディスクシステムが当初の思惑通りROMカセットにとって変わる存在とならなかった為にDOGブランドは自然消滅、中々経営を軌道に乗せられませんでした。

スクウェアは「ファミコンドラクエの様なRPGを作りたい」と「ファイナルファンタジー」を年末に発売すべく制作していました。(タイトルの由来として「これが売れなかったら倒産、これが最後の夢」という意味で名付けられたと言われていますが、FFという2文字4音で発音出来る事を前提に名前を決めたと坂口博信氏が2015年5月に立命館大学で実施された浜村弘一ファミ通グループ代表とのトークイベントで語っています)

しかし発売に向けて準備をしていた矢先、悪夢の様な情報が飛び込んで来ます。当時すでに国内RPGの代名詞的存在だったドラゴンクエストの第三弾が12月発売と発表されたのです。圧倒的知名度徹夜・行列の社会現象間違い無し、話題独占待った無しの人気を誇るドラクエが発売されれば年末商戦はドラクエ一色になって他のタイトルはもちろん、しかも同ジャンルの新作RPGタイトルなど無かったかの様に蹴散らされるのは明白でした。

タイトル通り夢は夢のまま終わるのか。そんな絶望的な雰囲気の中、ドラクエⅢが来年2月に発売延期となります。そして予定通り年末に発売された「ファイナルファンタジー」はドラクエのうわべだけを真似たRPGが溢れる中で「これはドラクエと違う面白さだ」と評価を受けます。(ちなみに翌年2月に発売延期されたドラクエⅢは入試直前の受験生達にかいしんの一撃を炸裂させて「そして留年(浪人)へ」という洒落にならないエンディングをもたらします)

ちなみにFFは「ドラクエが出来たからってそんな簡単にRPGが作れる訳が無い」と当時のスクウェア社内でも支持が低かったそうで、開発チーム発足時のメンバーは4人だったそうです。しかしこの4人の中にナージャ・ジベリという伝説的なプログラマがおり、他のスタッフでは実現出来ない処理を驚異的なコーディングテクニックでことごとく実装して行きます。

ナージャ氏は自分の経営するゲーム会社が1983年のアタリショックで倒産した後に放浪の旅を続ける中、友人が経営する会社でアメリカ用ファミコンNES)開発の手助けを頼まれた際に来日します。そして任天堂宮本茂氏と面会しますがナージャ氏は任天堂に直接協力する事は無く、その後氏のファンだった坂口氏と知り合い熱心な勧誘を受けてスクウェアに入社してファイナルファンタジーⅠ~Ⅲや聖剣伝説2、とびだせ大作戦等の開発に携わります。

「現在も残るナージャ氏の伝説」
・ゲーム中で飛空挺に乗って移動する高速スクロールはナージャ氏がファミコンにわざとバグを起こさせるプログラミングによって実現しており、本来実現出来るはずのない移動速度に任天堂開発陣も驚愕

・ゲーム序盤でいきなり自分の名前が出るオープニングを作成、さらりと自己主張

・ゲーム中で使われていないメモリ領域を見つけて隠しコマンドを入力して起動する15パズルのミニゲームを実装

ファミコン版FFⅢ開発時のバグ探しで、その現場にいなかったナージャ氏が自分の打ち込んだプログラムを全て覚えていて電話越しに修正指示を出してバグを消し去りスタッフ驚愕

他にもファミコン版FFⅢのWSC(ワンダースワンカラー)版が発売されずに続編のナージャ氏が関わっていないⅣがWSC版で発売されたのは、ファミコン版ナーシャ氏のプログラムを他のスタッフが見ても何をしているのか理解出来ず、リメイク版開発当時ナージャ氏はスクウェアを去っていた為に解析に時間が掛かり見送ったのではとも言われています。(FFⅢのWSC版が発売されていないという事実だけで他にもオリジナルのプログラムを紛失したからだとか真偽は不明)

スクウェアが会社存続の危機に手堅く売り上げが狙える開発経験のあるジャンルで無く、坂口氏のやりたいRPG開発を許可したこと。

そんな会社存続の命運を掛けたタイトル開発時にナージャ氏という伝説的な天才プログラマーが社内にいたこと。

同じ年末発売だったドラクエⅢの発売が翌年に延期されたこと。

まるでこのソフトが世に出て支持を受けるのが約束されていたかの様な偶然の中、ファイナルファンタジーを50万本売り上げたスクウェアは息を吹き返して次回作を作る資金を得ます。そして今やドラクエと並んで国内RPGを代表するタイトルとなった当時のスタッフ達の「夢」は今もまだ続いています。

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■1987年の主な出来事(大卒初任給  約152,630円)

『一般』
・日本初の女性エイズ患者認定
国鉄が民営化されてJRに
利根川博士がノーベル医学、生理学賞受賞
・俳優の石原裕次郎死去
安田生命ゴッホのひまわりを53億円で購入
中嶋悟が日本人初のF1ドライバーに(鈴鹿で初のF1開催)
・マイケルジャクソンが後楽園でコンサート
・後楽園球場が解体、東京ドームへ
・NTTが携帯電話サービス開始
アサヒビールが「スーパードライ」を発売、超人気商品に
秋元康プロデュース「おニャン子クラブ」解散
有明コロシアム完成

『ゲーム業界』

NECとハドソン共同開発によるゲームマシン「PCエンジン」発売
スクウェアから「ファイナルファンタジー」発売。ドラクエに匹敵する面白さと絶賛
カプコンロックマン」発売。以後ボスデザインをユーザーから募集する
日本ファルコムイース」発売、RPGを一般ユーザーに解放

『ヒット曲』
命くれない、愚か者、君だけに、STAR LIGHT、ろくなもんじゃねぇ、雪國、

『流行語』
・マルサ、サラダ記念日、朝シャン、サンキューセット、JR、第二電電、ゴクミ、

『この年に生まれた有名人』
長澤まさみ織田信成相葉弘樹、チャングンソク、喜多村英梨平野綾後藤沙緒里明坂聡美入野自由

『TVドラマ・アニメ・映画』
・ハチ公物語        ・ドラえもんのび太と竜の騎士
次郎物語         ・きまぐれオレンジロード
機甲戦記ドラグナー    ・シティーハンター
ミスター味っ子      ・赤い光弾ジリオン   
レモンエンジェル     ・ビックリマン     
スケバン刑事       ・マルサの女      
プラトーン        ・トップガン
ビバリーヒルズコップ2  ・ハチ公物語
アニメ三銃士       ・陽あたり良好

1986年(昭和61年):書き換えゲーム機と竜退治の始まり

・2/21 ディスクシステム
・2/21 ゼルダの伝説169万本
・4/25 FCグラディウス
・   小島秀夫氏がコナミに入社
・5/27 ドラゴンクエスト150万本
・6/3  スーパーマリオ2 265万本
・6/6 「ファミコン通信」創刊
・7/1  シャープからツインファミコン発売
・7/20 セガマークⅢ北斗の拳
・7/21 ディスクでバレーボール198万本
・8   アーケードでストリートファイター稼働
・9/26  ディスクで悪魔城ドラキュラ
・12/10 ファミスタ205万本
・12/21 マークⅢでスペースハリアー

■2/21 書き換えられるゲーム機の誕生

2月21日、500円でゲームの書き換えも出来るというファミコン拡張マシン『ディスクシステム』が発売されます。

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ROMカセットの容量不足と半導体の品不足・価格高騰に対して開発された磁気ディスクメディアのファミコン拡張機器でした。

ディスクシステムの特徴」
 ・ROMカセットの弱点をモロに補う大容量・安価な磁気ディスクを採用
 ・セーブデータが書き込めるので、本体の電源を落としても次の日に保存した
  データを読み込んで昨日の続きが遊べる
 ・ゲームに飽きたら小売店に設置された「ディスクライター」で500円で別のゲームに書き換えられる
 ・「ディスクファックス」 というモデムと電話回線を繋げてネットワークを構築する

ちなみに媒体として採用されたのはフロッピーディスクではなく、日立マクセルが開発したもののフロッピーディスクに押されていた「クイックディスク」です。見た目がフロッピーディスクと似ていますが構造が単純な分安価で耐久性も優れていました。

「クイックディスクの特徴」
 ・2.8インチで片面32KByte(両面で64KByte)
 ・フロッピーディスクに比べて安価だがランダムアクセス不可でシーケンシャルのみ
 ・読み取りヘッダが片方しかないので表と裏を入れ替えてセットする必要がある
 ・フロッピーの様にトラックがなくレコードの様に「片面全部で1つのデータ」
  なので1Byte読むにも片面全てを読み込む必要がある(約8秒かかる)
 ・読み込んだデータを保存する片面(32KByte)以上のDRAMが必須

任天堂は違法ソフト対策としてディスクケースをオリジナルのサイズに作り直して「今後ゲームは全てディスクシステムで発売する」とまで宣言する自信を持って発売します。任天堂を代表するタイトルとなった『スーパーマリオブラザーズ』の続編や『ゼルダの伝説』、『メトロイド』といったタイトルを発売して販売台数も450万台と決して悪くない数字を残します。しかしディスクシステムはROMカセットの後継者にはなれませんでした。

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供給不足だった半導体が過剰生産で価格が急落して品不足と価格高騰問題が解決してしまった事と、ROMカセット内にバッテリーを内臓してデータを保存する 「バッテリーバックアップ」 が可能になった為にディスクシステムを使う意味が一気に薄れてしまったのです。

次に流通業者の反感を招きます。ゲームディスクが1枚2500円前後とROMカセットの約半額で書き換えなら販売価格はたったの500円。この価格設定では儲けが乗せられないのです。しかも書き換えの場合は商品として流通しないでお客の手に渡るので流通業者は完全に蚊帳の外になります。

ディスクシステムの長所・短所」
・ROMカートリッジより生産サイクルが短く、人気が出て売り時を逃さず販売できる
・書き換えなら小売店も売れるか分からない在庫を保管する必要がない
・ユーザーにとってはありがたい500円での書き換えも小売店に入る利益は100円
・書き換えでないパッケージソフトが売れてもサードパーティに入る利益は500円程
ディスクシステムでゲームを発売する際のライセンス契約が厳しく、ゲームソフトの著作権任天堂と折半
・小売店は在庫を持たない代わりにでかいディスクライターを設置する場所の確保
・コスト重視で仕組みが簡単なクイックディスクを採用したことで違法コピーが横行

ちなみにファミコンをネットワーク通信機器として使う構想の足掛かりとして、このディスクシステムでFAX通信サービスを提供する「ディスクファックス」という商品を準備していましたが実現せず、「ゴルフJAPANコース」等のソフトで全国ランキングを競う企画で小売店の「ディスクファックス」にディスクをセットすると任天堂にゲームのスコアが送信されるという使われ方をした位でした。

サードパーティと小売店からディスクシステム自体が敬遠されたこともあり、データ通信サービスも
あまり活躍する場はなかったみたいです。(家庭用FAXサービスと小売店に設置された任天堂にデータを送信する機器の名前、どちらも「ディスクファックス」と言います。まぎらわしいですね)

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そんな経緯を経て、ディスクシステムの販売台数は発売初年度をピークに徐々に減少して淘汰されます。

ソニーからの使者

ディスクシステム発売から2~3ヵ月後、ソニーの技術者である久夛良木健 (くたらぎ けん) 氏が任天堂を訪れます。まずノウハウのある音まわりで音源チップを任天堂に提案し、任天堂もその音質の良さから採用を検討します。

次に本題として、任天堂ディスクシステムで採用したクイックディスクの欠点を指摘した上でファミコンの後継機にCD_ROMメディアの採用を検討して欲しい。」と持ち掛けます。その後1991年までの5年間、任天堂ソニーで協議を進めて行く事になります。

ナムコのNC1プロジェクト

この年ナムコは自社TVゲーム機「NC1 (Namco Consumer 1)」の開発を開始します。当時ナムコはハドソンと共にファミコンの初参入サードパーティとして任天堂から最恵国待遇で迎えられていました。

任天堂と協力体制にありながら、そのファミコンのライバル機を開発しようというのです。当時すでにファミコンが市場独占状態であった中、任天堂からサードパーティ契約を打ち切られる報復措置を取られても仕方のない行為です。ナムコ中村雅哉社長は計画を立ち上げた理由について

・技術者としてメーカーとして自社ハードを持ちたいという願い
・1社による市場独占は好ましくない。市場は競争相手がいるべき

という説明をしています。任天堂と競り合う企業がないならウチがなってやろうという訳です。ナムコは16bitCPUを搭載したCD_ROM媒体のゲーム機を製品化出来る所まで開発を進めます。製品化の目処が立った時、改めてファミコンに勝つ戦略を考えます。当時約1000万台が普及していたファミコンに対抗するのは並大抵の努力では不可能です。

そして「ゲームソフトを2本買ってくれたら本体プレゼント」という大胆な戦略を考えます。しかし数百万台の本体を配るというのは数百億のお金をばら撒くという事、そして仮にハードを配布してもその後のある意味ハードより重要なソフト供給の問題があります。

本体の儲けを諦めるのならソフトのラインナップを充実させるのが一層重要になる。しかし自社タイトルはともかく、サードパーティファミコンにがっちり押さえられていて人気絶頂のファミコンからこちらに乗り換えてくれるメーカーが果たして何社いるのか全く予測出来ませんでした。以上を検討した結果、ナムコは自社ハードの製品化を断念します。(開発中のNC1ハードをSony久夛良木健氏に見せたら「ウチでもゲーム機(後のプレイステーション)を作ってる」と言われて、じゃあそのハードに乗っかろうという話になったとか)

そして自社ハード開発とは別にもう1つ、ナムコが得ていた優遇措置が元で任天堂との関係を悪化させる事件が勃発します。
ちなみにナムコ任天堂から受けていた優遇措置は以下の様な物でした。

・年間リリースタイトル無制限(通常は任天堂から年間○本までと決められる)
任天堂に納めるロイヤリティが他メーカーより安い
・ROMカートリッジ自社生産OK
(通常はマスターROMを任天堂に納めて任天堂管轄の工場で量産する委託生産が
 義務付けられていた。任天堂管轄の工場で量産する場合は製造費も任天堂が設定
 した価格に従うしか無いが、自社生産OKなら自分で製造費を抑えて利益に回せる)

そして当時、ファミコンで「なぜナムコ以外のメーカーのゲームがナムコから出るんだろう?」と思った人はいませんでしょうか?ナムコは年間タイトルリリース数無制限という優遇措置を利用して、他のゲームメーカーからロイヤリティを得て他社タイトルをナムコタイトルとしてリリースしていたのです。

ナムコブランドとして発売された他メーカーのタイトル」
・アトラスの女神転生
データイーストのバーガータイム
カルチャーブレーンスーパーチャイニーズカルノフ
など

本来ゲームメーカーがファミコンタイトルをリリースしようと思ったら任天堂とライセンス契約を結んでロイヤリティを任天堂に納めます。しかしナムコ任天堂の好意で得た優遇措置を使い、本来任天堂が得るはずの他社からのロイヤリティを自分の利益にしていました。

任天堂はこうしたナムコの行動に眉をひそめながらも契約期間の5年間は優遇措置を認め続けますが、契約満了後の再契約時に同様の優遇措置を取らない事を告げます。しかし納得が行かないナムコ任天堂が年間リリースタイトルを制限するのは独占禁止法に抵触するのではないかと裁判にまで発展します。

しかしナムコの訴えは退けられて結局任天堂と和解します。しかしこうした一連の流れは任天堂ナムコの関係を確実に悪化させ、その後ナムコSonyやハドソンとの関係を重視し、任天堂以外のハードにソフト提供を増やして行きます。

■もう1つの最恵国待遇メーカーはCPUを開発

ナムコが自社ハード計画を発動したこの年。ナムコと並ぶ最初期にサードパーティ入りしたハドソンもまたCPUを開発しようとしていました。しかしナムコとは意図が少し違いました。ハドソンの工藤浩社長は・・・・・・

ファミコンで儲かって金が出来た

・最近ソフトの開発レベルがファミコンのCPUじゃ実現出来なくなって来ている

・じゃあどんなCPUがあればいい?

・社員に半導体作ってた人間もいるし、いっちょ自分とこで作ってみるか

というコメントを残しており、最初は全くビジネスにしようと思わずただ欲しいから作ってみようという事だったそうです。しかしCPUを作るといっても実際にハドソンが作れる訳ではないのでさっそく半導体メーカーに話を持って行きます。

「別に量産して売るつもりはないから、とにかく1個作って欲しい。自分の机にファミコンより性能の良いゲーム機が1台あればいいので」

・・・うらやましいというかなんというか、こんな感じで完全に自己満足の世界だったようです。しかしそんな漠然とした理由で、しかも業績を上げたとはいえゲーム業界以外でほぼ無名な北海道から来た会社の話を信用してまともに聞こうとする半導体メーカーはほとんどなかったそうです。ようやくエプソンの担当者から「分かりました。作るには大分費用が掛かりますが資金は大丈夫ですか?」と聞かれた時、工藤氏は

「金ならいくらでも用意します。なんなら今ここに積みますから」

と言って担当者を驚愕させたそうです。(今更ですが工藤氏は豪快な性格で有名な方です)

こうして2億円の費用を掛けて「Hu-7」というCPUが誕生します。いざ動かしてみると描画能力でもファミコンより数段上の性能を発揮するオリジナルCPUの仕上がりに「これで何か出来るんじゃないか?」と考えてパソコン関係の取引があったシャープに見せると「これは売れる」と盛り上がります。

しかしシャープはゲーム&ウォッチを共同開発した時から任天堂と取引を続けていたので任天堂さんのライバルになるかもしれないハードの開発はウチではちょっと・・・」とシャープと何か作ろうという話はまとまりませんでした。

次にNECに話を持って行くと
「ちょうどゲーム機を作りたいと思っていた」と次の日にはNECの担当者がハドソンを訪れ、トントン拍子に話がまとまって翌年の1987年にハドソンとNEC共同開発による家庭用TVゲーム機が発売されます。

■子供達の2大ヒーローが劇場で激突

当時の小中学生ゲーマー達から神として崇められテレビ・雑誌・アニメ・TV番組等で活躍していた高橋名人(現ハドソン)と毛利名人(現ファミ通編集部)が対決する映画が劇場公開されたりとファミコンは社会現象としてゲーム業界の枠を超える影響を周囲に与えていました。(当時高橋名人は27歳、毛利名人は19歳)

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小島秀夫氏がコナミに入社

この年、後にメタルギアシリーズで世界中にその名を轟かせる小島秀夫氏がコナミの神戸支社に入社しています。大学生の頃にアーケードゲームに夢中になり、当時イーアルカンフー等をリリースしていたコナミに興味を持ち、「ここならファミコンを作らせてもらえる」と入社を決めたそうです。

しかし小島氏が配属されたのは、1983年に米マイクロソフトアスキー(現アスキーメディアワークス)によって提唱された8ビット/16ビットパソコンの共通規格統一規格であるMSX用ゲームの開発部署でした。

希望だったファミコン開発が出来ず、当時は会社を辞める事も考えていた小島氏。更にMSXファミコンよりハードウェア上の制約が厳しかった為に上司から「画面上の戦闘員を3人に限定し、射撃アクションも出来るだけ少なくしたシューティングゲームを作れ」という難問を課されます。

ただでさえファミコンより制約の多いMSXでどうすればゲームが成立するのか……戦場を舞台背景に決めた小島氏は最初の案として「戦場では多くの兵隊や武器が飛び交うが、それらを描画するハード性能は無い。ならば戦場でありながら戦いを避け、敵に見つからないように隠れるゲームはどうか」と敵に捕らわれた特殊部隊の工作員が捕虜収容所から脱出する設定を考えます。

しかし敵から逃げ回り隠れ回る主人公は格好良いとは言えませんでした。そこで小島氏は「敵に見つからないように隠れる点は変わらないが、そこに単独潜入作戦というストーリー性を持たせることで緊張感溢れるゲームにすれば」と発想を逆転させ、主人公を特殊工作員として敵地に潜入させる設定に変更します。

当時「敵を避けながら進む」ゲームは他にもありましたが、子供向けのありがちな世界観ではなく、戦争という現実感溢れる世界観と舞台設定でそれをやろうとしたのは前例のない大きな特徴でした。

こうして翌年1987年7月に発売された「メタルギア」は、戦場が舞台でありながらほとんど戦闘場面のないゲームという例を見ない作品として注目を浴び、その後の続編作品は「ステルスゲーム」という新しいジャンルを確立します。

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■5/27 家庭用TVゲーム機初の本格RPG
日本のTVゲームを代表するひげおやじが登場した翌年、それまでパソコンでのみプレイされて来たジャンルがファミコンに登場します。RPGロールプレイングゲーム) というジャンルでエニックスから発売された『ドラゴンクエスト』 です。

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高校時代から様々な業務用ゲームをパソコン用に移植してマイコン誌「I/O」に投稿、賞金稼ぎとして名を馳せ、1982年の「エニックスゲームホビープログラムコンテスト」に「ドアドア」を応募して優秀賞を受賞後、大学時代に「チュンソフト」を起業する天才プログラマー中村光一氏。

大学卒業後にフリーライターとして活躍していた頃にパソコン(ゲーム)と出会って自作ゲームの制作を始め、「週刊少年ジャンプ」編集者の鳥嶋和彦からライターとしてエニックスのプログラムコンテスト取材を依頼された際に自作ゲーム「ラブマッチテニス」を応募して入選、このコンテストで中村光一氏と知り合った縁からシナリオを担当する堀井雄二氏。

フジTV時代にディレクターとして世界初の音楽ランキング番組「ザ・ヒットパレード」や「新春かくし芸大会」 等の番組を手がけ、本来やりたかった作曲活動に専念する為にフジTV退社後はCM・アニメの作曲を数多く手掛け、また無類のゲーム好きとしてエニックスの「森田の将棋」の相手CPUが駒を移動させるアルゴリズムに疑問を持ってユーザーアンケート葉書を投函、それを見たエニックスが「これってあのすぎやまさん?」と連絡を入れた所からゲーム音楽の依頼を受ける事になった大御所、すぎやまこういち氏。

1980年の初連載「Drスランプ」ヒット後、1984年から掲載された「DRAGON BALL」も大ヒットとなり、すでに売れっ子として多忙だったが担当編集者だった鳥嶋氏の「やれ」というやさしい説得でキャラクターデザインを担当した漫画家、鳥山明氏。

以上の豪華過ぎるメンバーによって制作された家庭用TVゲーム機初のRPGでしたが、当時RPGフロッピーディスクの枚数を増やして容量に対応出来るPC用ゲームとして発売するのが常識とされており、フロッピーディスクより容量が少なく拡張性もないROMカセットでの制作は困難と言われていました。

エニックスゲームホビープログラムコンテスト」の副賞でアメリカ旅行に行った際、「ウィザードリィ」や「ウルティマ」等のRPGブームを目の当たりにした堀井氏と中村氏がファミコンRPGの制作を検討した時も、当時エニックスのプロデューサーだった千田幸信(ちだ ゆきのぶ)氏は「いかにファミコンといえどアクションゲーム全盛の時代に認知度の低いRPGを家庭用機に投入するのはまだ早い」という判断でした。

そこで堀井氏は画面にあまり変化が無く、文章を読んで先の展開を考えるアドベンチャーゲームが受け入れられるのか?というテストを兼ねて、1983年にPC用で発売したコマンド選択型のテキストアドベンチャーゲームポートピア連続殺人事件」を1985年にファミコンに移植して発売します。(他に堀井氏が制作した「オホーツクに消ゆ」と「軽井沢誘拐案内」という2つのタイトルと合わせて『堀井ミステリー三部作』と言われています)

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堀井氏は初めてのファミコンタイトル開発でテキストを限られたメモリ容量に収めるノウハウや、キーボードで文字入力の出来ないファミコンでも遊べるようにあらかじめいくつかのコマンドを画面上に用意して、十字キーでカーソルを移動させて行動を決定する「コマンド選択方式」という操作系を考案し、結果としてファミコン版ポートピアは60万本を売り上げるヒットとなります。

こうしてこれまで家庭用TVゲーム機には無かったユーザーに「アクションだけでなく文字をじっくり読んで進めるアドベンチャーゲーム」の存在と「メニューに用意されたコマンドを選んで進行するゲーム操作」を認知させ、それがファミコンユーザーにも受け入れられると確認できた事で、家庭用機初のRPG制作が承認されます。

 しかしやはりROMの容量制限の壁は厚く、使う文字やアイテム・画像パターンを極力削る作業が続きました。

また、ポートピアで操作方法を示したと言ってもファミコンを持つユーザー全てがポートピアを遊んで事前に予行練習をしてくれている訳ではないので、制作途中で子供達にテストプレイをさせても、町で武器や防具を買わずに素手の素っ裸でフィールドを歩き回ってモンスターに惨殺される勇者が多発して「すぐやられてつまらない」と子供達の評判も散々で、中々意図した通りに遊んでもらえませんでした。

そこで堀井氏はゲーム開始時に王に謁見する名目で部屋にプレイヤーを閉じ込め、メニューに用意されたコマンドを一通り使わないと町から外へ出られない様なチュートリアルを用意する等、工夫を凝らします。

またシナリオの重要な部分となる謎解きでも、先のポートピアで堀井氏が考案したあらかじめ用意された命令(コマンド)を選択する「コマンド選択方式」を使って適度に用意されたゲーム中のヒントから次の行動が選択出来る様に難易度が調整されました。

と言うのも従来のアドベンチャーゲームRPGはPCで遊ぶものであり、行動する為のコマンドも用意されておらず、キーボードから正しいと思うものを一文字ずつ入力して進めるのが普通でした。(英語版ならもちろん英単語)

更に謎解きもゲームと全く関係無い物も多く含まれており、そうした理不尽な謎を解き明かしてこそコアゲーマーの証という初心者手出し無用なジャンルとして認知されていました。(そんなシステムなのでクリアするのに数ヶ月というのもザラでした)その為、堀井氏のコマンド選択はコマンド総当りでサクサク進めてしまうと当時のコアゲーマーから指摘を受けますが、

RPGの面白さとはゲームに関係無い、普通に考えたら絶対に解けない謎を用意する事ではない。ユーザーを最後まで導くヒントを順序・バランス良く配置する事が重要

・プレイするユーザー全てがRPGに慣れている訳ではない。しかも家庭用ゲーム機では馴染みの無いRPGに初めて触れるユーザーの方が多いはず

という考え方を元に、初心者にも操作に戸惑う事無く全てのヒントを集めて考えれば必ずエンディングまで遊べるシステム構築にこだわります。

そんなRPGがまだ浸透していない当時ならではの苦労を1つ1つ克服しながら開発も終盤に差し掛かり、テストプレイもエンディング到達まで確認していよいよマスターアップという所で、堀井氏からほぼ全てのモンスターとの戦闘システムを1から見直したいという信じられない提案が出されます。

テストプレイで難易度調整は取れていましたが、戦闘での敵の行動が通常攻撃の他に「ギラ」ホイミ」「炎を吐く」の3種類しかなく、敵との単調な戦闘が数十時間続いて飽きるとテストプレイで指摘されていたのです。

堀井氏の「認知度の低いRPGを初心者にも分かり易く」という思いが、シナリオ後半の戦闘システムで裏目に出てしまいます。ある程度開発が進んでテストプレイで戦闘を長時間続けないとゲーム後半の戦闘システムの単調さには気付けない。初のRPG制作で経験不足だった事もあるとはいえ、あまりに致命的な完成間際での発見でした。

敵の戦闘での行動パターンを増やす。それはどの辺りに登場する敵からどれ位の特殊攻撃や呪文を使わせるか?そしてそのモンスターと戦うだろう主人公の想定レベルは?という戦闘バランスを1から取り直す事を意味します。

マスターアップ直前、スケジュールに猶予はありません。しかしつまらないと分かっているゲームをそのまま世に出す訳には行かない。

「ゲーム自体は納品出来る状態。しかしゲームをもっと面白くしたいから時間が欲しい」

この堀井氏の無茶過ぎる要求に対し、プロデューサーの千田氏は1週間のマスターROM納品延長を決断します。(カセットを量産する工場や他関係各所に絶大なご迷惑をかける事になります)

通常では到底考えられない修正をスタッフ総掛かりとなって1週間で終えたゲームは、家庭用ゲーム機初のRPGドラゴンクエスト」として5月27日に発売されます。 


堀井氏が細心の注意を払った家庭用ゲーム機初のRPG。しかし商品としてその売り上げは芳しくありませんでした。スーパーマリオを始めとするアクションゲーム全盛時代にキャラがゆっくり動いて画面に派手さも無く、しかも文字を読むのが面倒臭いという当時の子供達の余りに当然過ぎる反応でした。

しかし当時RPGを遊んでいたのは小さな子供ではありません。中高生以上の大人達をメインターゲットにパソコンで人気を博してきたジャンルです。発売直後の販売本数に表れなかったとはいえ、そうした世代にこのゲームは確実に驚きを与えていました。

ファミコンRPG、だと・・・?しかも面白い・・・どうなってんだ一体」

正直子供向けのおもちゃとしてファミコンを軽視していたPCで従来のRPGを遊んでいたユーザー達は驚愕します。そして制作者側にも「ファミコンRPGが作れるのか」と衝撃を与えます。

全くRPGを事前に見た事も聞いた事もないマリオ好きな子供達は仕方ないとして、もう少し年齢が上の「RPGをやってみたいけどパソコンなんて高くて買えない」という、やった事無いけど興味がある人達にとって¥14800のファミコンで遊べる本格RPGとしてドラクエはうってつけでした。

更に元々PCが主戦場だったジャンルだった事から、その完成度に驚愕したPC専門誌のライター陣が「ゲーム専用機でとんでもないRPGが出た」とその魅力を記事で紹介した事から口コミで噂が広まって行きます。そうした経緯で徐々に人気が広がり、年間売り上げ150万本というミリオンセラーを記録して「家庭用ゲーム機でRPGは無理」という前評判を覆して一躍人気ジャンルとしてRPGを定着させます。

その後もドラクエは「家庭用ゲーム機RPG」の代名詞として以降発売される続編が人気を博し、徹夜の行列でTVや新聞等でも取り上げられる程の社会現象を起こすなど、日本のみならず世界規模の知名度を持つタイトルとして今でも続編タイトルが発売されています。

ちなみにこの翌年、倒産危機に瀕したあるゲームメーカーがドラクエの成功を見て「自分達も家庭用機でRPGを作ってみよう」とあるタイトルを発売します。彼らが作った「夢」は、当時は雲の上の存在だったドラクエと後に不思議な運命で繋がって行きます。

■ひげ兄弟、再び
前年の爆発的ヒットでファミコンソフトの代名詞となった「スーパーマリオブラザーズ」の続編がディスクシステムで発売されます。(当時任天堂は容量の制限が厳しく単価も高いROMカセットからディスクシステムへの移行を目指しており、ディスクメディアでの発売でした)

 ・取るとダメージを受ける毒キノコの登場
 ・マリオとルイージでジャンプ力や着地時の摩擦力に違いが生まれ、
  ゲームスタート時にどちらを使うか選べる
 ・ワールドを戻される逆ワープゾーン
 ・ジャンプ難度を上昇させる風が吹く
 ・前作で裏技として話題になった「9-1」の出現
 ・ステージクリアのポールにつかまった際に花火が鳴る法則の変更と1UPの追加

等の追加仕様もありましたが、見た目や操作方法は基本的に変わりませんでした。前作との最大の違い、それは「とにかく難しい」という事でした。最高の人気と知名度を誇るタイトルの続編として、そして任天堂が目論んだ「ROMカセットからディスクへの移行」を促すタイトルとして注目され、結果として265万本という大ヒットになりました。

しかし、スーパーマリオの続編をもってしてもディスクシステムが予想より普及しなかった事から前作の爆発的な販売本数とは行かず、何より難易度を上げ過ぎた事で挫折するユーザーも多かった事から「あの」スーパーマリオの続編としては物足りない結果に終わりました。

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■8月 アーケードでストリートファイター稼働 (基盤価格¥148,000)

カプコンの西山隆志氏は、アイレム在籍時に手掛けた「スパルタンX」というゲームに登場するステージボスとの対戦シーンだけを抜き出したアクションゲームを考え、8月に業務用2D対戦型格闘ゲームストリートファイター」として発売されます。

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アップライトとテーブル筐体の2種類が発売され、アップライト筐体ではレバーとボタン2つという構成だったのですが、このボタンがとにかく大きい物でした。このボタンには圧力センサーが内蔵されており、ボタンを叩く強さに応じて圧力センサーで強弱を判定し、発動する技が弱・中・強の3段階に変化するという物でした。

そしてボタンだけでなく、筺体全体も頑丈で大きいものでした。なぜならこの筺体はアメリカのアタリゲームズ社製で、正直日本人(しかも子供)の体格を考えて作られたとは言えなかったのです。しかも「圧力センサー付きのボタンをバンバン叩くんだから頑丈に作らないと」という事で厚いゴム製ボタンの中身は木版。叩けば叩くほどダメージが手に蓄積されます。

しかも子供が普通に手で押したのでは強攻撃と判定されない為に、肘のエルボースタンプやゲーム内キャラの様に飛び上がって肘を打ち降ろす等、プレイヤー自身が必殺技を習得する必要がありました。稼働開始が真夏だった事もあり、汗を撒き散らしながらプレイするプレイヤーの姿はいつしかこの筺体を「体感ゲーム」ならぬ「体汗ゲーム」と呼ばせていました。


一方のテーブル筺体は1レバー6ボタンで弱中強3種類のボタンがあり、それがパンチとキックそれぞれにあるため6つのボタンが存在しました。基本的に各ボタンを押して攻撃して行くのですが、このゲームには特殊なレバー入力とボタンの組み合わせで発動する、いわゆる「コマンド技」と呼ばれる隠し技が3種類(波動拳昇竜拳竜巻旋風脚)存在しました。

しかし絶大な威力を持つこれらの技は、筺体付属のインストカードに存在する事のみが書かれていて、レバー入力は掲載されていませんでした。(竜巻旋風脚に至っては技の記載すらなし)

実は稼働直後にマイコンBASICマガジンで入力方法は掲載されていたのですが、そんな雑誌を手に取る機会のない子供達は、知る知らないでゲームの面白さが別次元になるこの技のレバー入力情報を求めて必死に入力方法を解明します。

そしてレバー入力情報を知ったプレイヤー達はこれで勝てるとばかりに練習するのですが、ほとんど技を思い通りに出す事は出来ませんでした。コマンド技を出すための秘密が実はもう1つ、ボタンの押し方にあったのです。

なんとこのボタン、押しただけでは入力判定が発生しないのです。実は押された時ではなく離された時に入力判定が発生する為、レバーをコマンド入力した方向に止めた状態でボタンを「押して離す」のが真の入力方法でした。

このボタンの入力仕様を知らないとまずタイミングが合わずに技が出ない事から、「コマンド入力情報は知っているのにほとんど技を出せない奴とポンポン技を出す奴」という奇妙な二極化が生まれます。

それでも時間の経過と共にボタンの仕様が知られると、練習すればほとんどのプレイヤーが自在に技を操る様になり、3回当てれば相手をKO出来るコマンド技のゲームバランス崩壊寸前の威力に酔いしれるユーザー達でヒット作となります。(ただしもっぱらプレイするのは圧力センサーのアップライトでなく、6ボタン仕様のテーブル筺体でした。飛び上がってコマンド入力して圧力ボタンを押して離すのはお子様プレイヤーには厳しすぎました。ただ国外ではアップ ライト筐体でも6ボタン仕様の物があったそうです)

特にアメリカではバカスカ圧力センサーを叩いて操作する見てもやっても分かり易い体感ゲームのノリが受けて大ヒットとなり、アメリカ支社から続編を臨む声がが日本に届きます。そうしてカプコンは「STREET FIGHTER 87」というサブタイトルで続編を制作してアメリカ支社に見せるのですが、

「我々が求めているゲームはこんな物じゃない。お前達は何も分かっていない」

と怒られます。1対多で闘う横スクロールタイプのベルトアクションゲームだったその続編は「FinalFight」という違うタイトルで発売され、キャラの個性と絶妙な難易度で大ヒットとなるのですが、改めてストリートファイターの続編を作る事になります。

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こうして1991年に正統な続編タイトルが発売されます。初代では秘密だったコマンド入力技を初めからインストカードに記載し、ボタン仕様も見直して技を出しやすく、固定だったプレイヤーキャラも8人の各国のファイター達から選べる様にしたこの続編タイトルは「対戦型格闘ゲーム」という新しいジャンルを成立させ、20年以上経った今でも続編が発売される大ヒットゲームとして世界中のユーザーに愛されています。

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■12/10 ファミリースタジアム

当時ファミコンで野球ゲームと言えば任天堂が発売した「ベースボール」だけでした。ファミコン初の野球ゲームとして十分面白かったのですが、

当時ファミコンで野球ゲームと言えば、任天堂から発売された「ベースボール」だけでした。ファミコン初の野球ゲームとして十分面白かったのですが、

 ・実在するプロ野球の様にリーグの区別がない
 ・選手ごとに名前や打力・走力等の設定がないので打順の意味がない
 ・守備はピッチャーを操作して投げるだけ(内外野の守備は自動)で得意な
  球種や投げ方、スタミナの概念がなく交代もしない
 ・攻撃ではバッターを操作して打つだけで、ランナーがいる際に盗塁やエンドラン等の戦術が取れない

野球ファンにとっては上記の不満があり、お気に入りのチームとしてチームの色を選ぶ以外に感情移入出来ませんでした。ファミリースタジアムは基本的な画面構成や操作法は任天堂のベースボールを踏襲しつつ、上記の点を改善して野球ゲームファンの支持を得ます。

チーム名や選手名は権利上の問題から実在名ではありませんでしたが、ファンなら誰の事か分かる名前になっていました。個別の能力も設定され、守備ではピッチャー毎に得意な球種やスタミナ値(ゲーム中は数値化されずに球速が遅くなり、変化球が曲がらなくなる)が設定されて守備も基本的に自分で操作し、打者も打率・長打力・走力等のパラメータが設定されて「ランナーを強打者の前にためて一気に生還させる」といった戦い方の駆け引きが生まれました。

これによりファミリースタジアムは「ファミスタ」の略称であっという間に野球ゲームファンの心を掴み、以降1994年まで9年連続で毎年続編が発売される人気シリーズとなります。

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「参考資料」

任天堂公式ホームページ 「ディスクシステムの生みの親 上村氏インタビュー」
ドラゴンクエストへの道
・DVDファミコンのビデオ 「GAME KING 高橋名人vs毛利名人 激突!大決戦」
ファミコン本体同梱漫画 「これがファミリーコンピュータだ ディスクシステム編」
・ゲーム大国ニッポン ~神々の興亡~

 
■1986年の主な出来事(大卒初任給  約144,500円)

『一般』
スペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げ直後に爆発、乗員全員死亡
チェルノブイリ原発事故
青函トンネル開通
・東京に宅配ピザの第1号店「シカゴ・ピザ」開店
・車のシートベルト着用義務化
ビートたけしと弟子が写真週刊誌「フライデー」編集部を襲撃、逮捕される
・江戸時代生まれの最後の日本人、泉重千代氏が死去(当然国内最長寿)
・六軒島で大量殺人事件発生(うみねこのなく頃に

『ゲーム業界』
ファミコン周辺機器 「ディスクシステム」 発売。第一弾は 「ゼルダの伝説
・「ファミコン通信」 創刊。いきなりドラクエラスボス写真を掲載して警告スタート
ファミコンスターソルジャー」 発売。子供達の中で高橋名人は神格化され、
 漫画化、アニメ化、映画化、レコード化と人気は最高潮に

『連載開始漫画』
聖闘士星矢 「週刊少年ジャンプ
おぼっちゃまくん 「コロコロコミック
ちびまる子ちゃん 「りぼん」
・YAWARA! 「週刊ビッグコミックスピリッツ
ミスター味っ子 「週刊少年マガジン
ジョジョの奇妙な冒険 「週刊少年ジャンプ
美味しんぼ 「ビッグコミックスピリッツ

『ヒット曲』
・仮面舞踏会、MyRevolution、CHACHACHA、シーズンインザサン、君は1000%


『流行語』
・究極、プッツン、激辛、家庭内離婚、ファミコン、新人類、おニャン子

『この年に生まれた有名人』
柳原可奈子亀梨和也沢尻エリカ、本田圭祐、ダルビッシュ有
小清水亜美福原香織, 廣田詩夢, 酒井香奈子, 後藤沙緒里岡本信彦

『ドラマ・映画』
男女7人夏物語  ・あぶない刑事     ・スケバン刑事
親子ゲーム    ・この子誰の子?    ・太陽にほえろPart2
子猫物語     ・ロッキー4      ・グーニーズ
バタリアン    ・ドン松五郎の生活   ・クロコダイルダンディー

『アニメ』
ドラゴンボール  ・機動戦士ガンダムZZ   ・魔法のアイドル パステルユーミ
めぞん一刻    ・聖闘士星矢       ・Bugってハニー
・光の伝説     ・ウルトラマンキッズ   ・宇宙船サジタリウス
あんみつ姫    ・剛Q超人イッキマン    ・メイプルタウン物語
マシンロボ    ・天空の城ラピュタ    ・北斗の拳

1985年(昭和60年):漫画から飛び出したヒーローと「世界のひげおやじ」

・1/30 FCアイスクライマー
・2/21 ファミリーベーシックV3
・4/9 FCサッカー153万本
・4/17 チャンピオンシップロードランナー
・6/21 FCスパルタンX142万本
・7  ファミマガ創刊
・7/18 スーパーカセットビジョン レディースセット
・7/26 FCファミコンロボット
・9/13 FCスーパーマリオブラザーズ681万本
・10  セガマークⅢ
・10/20 セガマークⅢでハングオン
・11/8  FCキン肉マンマッスルタッグマッチ105万本

■マリオが住む世界

当時任天堂には3つの研究開発セクションを設けていました。 開発第一部はウルトラハンドゲーム&ウォッチを開発した横井軍平氏、 第二部はファミコンを設計・開発した上村雅之氏、そして第3部は ファミコンカートリッジに電池を内蔵したバッテリーバックアップシステムを開発した 任天堂初のゲームクリエイターと言われる竹田玄洋氏が責任者でした。

そしてこの年、4番目のセクションである情報開発部の部長に 宮本茂氏が就任します。しかし宮本氏が情報開発部だからと言って他部署がマリオや ドンキーコングのゲームを作ってはいけない訳では無く、 おひげのおじさんは任天堂の様々なゲームに出演していました。 (スポーツの審判やビル解体屋やスポーツゲームの観客など)大工から配管工を経て転職を繰り返していたマリオですが それはそのゲームの中だけであって普遍的なものではありません。

「マリオと言えばこの世界」

という居場所はまだありませんでした。そして任天堂はROMカセットの容量不足や半導体高騰による 品不足を補う為に磁気ディスクを使ったファミコン拡張機器 「ディスクシステム」 の開発を始めていました。 (宮本氏もタイトル第一弾 「ゼルダの伝説」 の開発を始めていました)

宮本氏はROMカセット最後のゲームとしてファミコンで出来る事を 全てつぎ込んで 「マリオの世界」 を表現するゲームを開発します。宮本氏はこれまでに横スクロールのレースゲーム 「エキサイトバイク」 と 縦スクロールのアスレチックゲーム 「ドンキーコング」 を監修して来ました。

「それなら今度は横スクロールのアスレチックゲームはどうだろう?」

土管を残して前作の配管工というイメージは残しつつも 土管に入って辿り着く世界は 「夢の国」。アクションでも前作の「ジャンプ・下からパンチ・踏んづける・蹴飛ばす」という基本操作はそのままに、マリオは横へ横へとスクロールする夢の世界「キノコ王国」を走り抜けてゴールを目指す。まず 「大きいキャラクタを動かす」 というテーマでスタートします。

■「ドンキーコング」のスロープ、リフト、ベルトコンベア、はしご、
 「ドンキーコングJR.」のロープ、丸太、ジャンプ台、
 「マリオブラザーズ」の敵の攻撃、敵の動き、氷った床、パワー床、
  などのギミックを集大成として入れようとした
 (横スクロールはエキサイトバイクを、大きなキャラを動かすのは
  デビルワールドを参考にした)

■当初宮本氏は十字ボタンでジャンプ、A・Bボタンでのアクションを考えていたが、開発スタッフの反対でジャンプをボタンに割り当てた (攻撃方法も当初はライフルやビーム銃等が考えられていた)

■「エキサイトバイク」がゲーム開始時にステージを選べた事から「ROMカセットは途中でセーブが出来ないから上級者は最後のワールド8まですいすい行けたらいいね」という発想から「ワープゾーン」 が生まれた

■いろいろやろうという事でいつも以上にメモリ確保に苦心した(雲と草の茂みを同じ画像にしたり、敵を踏んづけた音と泳ぐ音を同じにしたり)

■ボーナスアイテムをコインにしたのは、例えばフルーツだとプレイヤーは敵と勘違いして逃げる可能性があったため。誰が見ても欲しいと思わせるのは 「やっぱりお金」となった

他にもファミコンの性能を使い尽くして作曲されたBGMやSEやマニュアルを読まなくても徐々に上達して遊べる様になるステージ構成、本当はキノコなのに見た目が茶色で「栗っぽい」事から名前が決まってしまったキノコ王国の裏切り者クリボー

多くの人達の思いを込めた結果、山内社長の期待を大きく超える全32ステージという壮大なボリュームとなったスーパーマリオブラザーズ」は発売されます。

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するとただでさえ多数のサードパーティが参入し、市場の90%以上を独占していたファミコン人気を更に加速させ、子供達はもちろん大人向けの週刊誌にもステージの画面写真を繋げた攻略記事が掲載されます。そして徳間書店はこの7月に世界初のファミコン専門誌「ファミリーコンピュータMagazine」を創刊、「スーパーマリオ攻略本」の発売を決めます。

すると発売前から本屋さんの注文が殺到、発売前に重版が決定するという前代未聞の事態を引き起こした上に、1985年~1986年に出版された書籍の中で2年連続最も売れた書籍となる等、ゲーム以外の業界にも影響を与える社会現象を起こしました。ちなみに1986年売り上げベスト30中徳間書店の本は7冊ランクインしており、内5冊がゲーム攻略本だった事からもファミコンブームの凄さが分かります。

国内販売本数681万本、全世界で4000万本以上販売されたこのソフトはブームを超えた社会現象として一気にファミコン知名度を全国に広め、「世界で最も売れたゲーム」としてギネスブックにも掲載されています。

■子供たちのヒーロー誕生
この年ハドソンはファミコン初参入ソフト「ロードランナー」の続編として「チャンピオンシップロードランナー」を発売します。

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しかし内容が難しすぎるという意見が社内にあり、ヒット作の続編とはいえそのまま発売する事に不安を感じたハドソンは当時子供達に絶大な人気を誇っていた漫画 「コロコロコミック」 のイベントで紹介してもらう様にお願いします。

そのイベントでカッコよくゲームをクリアしてくれる某教育TVの「体操のおにいさん」ならぬ「ゲームのおにいさん」を用意する様にコロコロ編集部から依頼されたハドソンは、若手の営業社員をそのイベントに「ゲームの上手なおにいさん」 として送り込みます。

ゲームイベント自体が珍しかった当時、銀座松坂屋で行われたこのイベントは 「ゲームのおにいさん」 のプレイに子供達が驚愕しつつ大成功で終わったのですが、イベント後に予想外の展開が待っていました。千人程集まった子供達のうち、数百人がこのおにいさん(ハドソン社員:高橋利幸氏)のサインを求めて帰ろうとしないのです。

当時コロコロコミックではファミコンを題材にした漫画が多く掲載されており、その読者対象のイベントで集まった子供達にとって、このおにいさんは「イベントで用意された営業の人」 ではなく「漫画から飛び出したヒーロー」だったのです。

この状況を見て 「こんなイベントを全国でやったら面白いね」 という話になり、同じく新作だったシューティングゲームスターフォース」を使って全国縦断イベント「ファミコンキャラバン」が始まります。このイベントで高橋氏は「高橋名人」となり、ものすごい連射で敵を一掃する「秒間16連打」で全国の少年ゲーマー達から尊敬や憧れを通り越して崇拝の対象となります。

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セガ3台目の家庭用ゲーム機

10月、セガから 「セガ・マークⅢ」 というゲーム機が¥15000で発売されます。ファミコン発売から2年後という事で本体の性能はファミコンを上回っていましたが、ファミコンの爆発的な人気とサードパーティ対応の遅れから王座を奪うには至りませんでした。

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しかし「SegaMasterSystem」という名で発売されたヨーロッパでは健闘を見せ、なんと海外版のファミコンNES)とほぼ互角にまでシェア争いを演じました。

先代機SG1000Ⅱとの下位互換付きで専用ICカードROM「マイカード」スロットを搭載。従来のカートリッジでは容量1Mを超えるタソフトの箱を「ゴールドカートリッジ」シリーズとして販売(中身のカセットは変わらず白)、自社アーケードの移植だけでなくオリジナルタイトルも発売され、対応84タイトルをリリースして性能では部分的にファミコンを上回る程でした。

しかし、ほぼ全て自社タイトルでサードパーティタイトルがサリオという特例メーカーの2本だけだった事と、この年「スーパーマリオ」という怪物タイトルがリリースされて形勢逆転は出来ませんでした。

しかし1984年に日本ソフトバンクが創刊したゲーム情報誌「Beep」が「発行部数の多い大手競合誌と同じファミコンを扱っても勝てない。敢えて2番手のセガを中心に扱おう」と当時セガマークⅢを中心に紹介、この路線変更によりBeepの発行部数も安定し、また「セガ人(せがびと)」というセガを好き過ぎて仕方無いマニアックなユーザーを生み出すきっかけになりました。

■世界初のTVゲーム専門情報誌

この年はスーパーマリオをきっかけに史上初のTVゲーム機専門誌が創刊されます。徳間書店が発行した『ファミリーコンピュータマガジン』です。(ちなみにファミ通は翌年の1986年創刊)

この雑誌では当時全盛だったファミコン各タイトルの「裏技」(通常出来ないプレイを実現させる特殊操作)を読者投稿で毎号50個掲載する人気コーナー 「ウル技(テク)50+1」 がありました。問題なのが 「+1」 で、その中にはファミマガ編集部が画像編集して作った絶対に出来ない 「ウソ技」 が1つ混ざっており、どれがウソ技か当てるのを次号までのクイズとしていました。

精巧に編集されたウソ技画像にすっかり騙されて掲載された操作を何時間も繰り返して次号でウソ技と知った全国のちびっこ読者が泣き崩れるという楽しいコーナーだったのですが、問題が起きます。

読者の大半が純粋な子供読者だった為に「この技は本当に出来るの?」とゲームを制作したメーカーに直接電話で聞くちびっ子が続発してメーカーから編集部へクレームが頻発するという、今では絶対に出来ない色々な意味で熱いコーナーでした。(特にスクウェアの 「水晶のドラゴン」 というタイトルで掲載されたウソ技はちびっ子に淡い傷を残しました)

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「参考資料」
社長が訊く 「スーパーマリオ25周年」
・超実録裏話ファミマガウソ技データベース付)

■1985年の主な出来事 (大卒初任給  144,541円)

『一般』
・日本初の男性エイズ患者を認定
・アニメ「タッチ」放映開始。終了までの3年間で平均視聴率が25%超え
電電公社がNTTに、日本専売公社日本たばこ産業株式会社(JT)に
エホバの証人信者の親が病院に搬送された自分の子供の輸血を拒否、死亡
日本航空123便が山中に墜落、乗員乗客524人中520人死亡
テレビ朝日ニュースステーション」 放送開始
・TBS「アッコにおまかせ!」放送開始
両国国技館が完成
・「8時だよ!全員集合!」16年の歴史に幕
・夕やけにゃんにゃん放送開始
・競馬でシンボリルドルフが7冠達成

『ゲーム業界』
ファミコンスターフォース」 発売。高橋名人16連射に全国の子供が驚愕
・史上初のゲーム専門誌 「ファミリーコンピュータマガジン」徳間書店から創刊
・「スーパーマリオブラザース」 発売。単体販売本数は現在でも歴代第一位
・「ボンバーマン」 発売。壁と爆弾に挟まれ切なく吹き飛ぶ子供が多発

『ヒット曲』
・C、Romanticが止まらない、ジュリアに傷心、ミアモーレ、悲しみにさよなら

『流行語』
・私はコレで会社を辞めました、イッキ、投げたらアカン、トラキチ、分衆、NTT

『この年に生まれた有名人』
白鵬宮里藍横峯さくらギャル曽根上戸彩大沢あかね後藤真希吉澤ひとみ
井上麻里奈沢城みゆき高垣彩陽名塚佳織福原香織、原由美

『テレビ・アニメ』
機動戦士Zガンダム    ・忍者戦士飛影    ・超獣機神ダンクーガ
・魔法のスターマジカルエミ ・ダーティペア    ・ハイスクール!奇面組
六三四の剣   ・タッチ  ・トランスフォーマー ・蒼き流星レイズナー
・Drスランプあられちゃん  ・小公女セーラ    ・ドリームハンター麗夢
のび太の宇宙小戦争    ・電撃戦隊チェンジマン

1984年(昭和59年):任天堂とエポック社とセガの三つ巴戦

・1/14 FCテニス156万本
・2/18 FCワイルドガンマンセット
・5/1  FCゴルフ246万本
・6/21 ファミリーベーシック
・7/10 ぴゅうたMK2
・7/17 スーパーカセットビジョン
・7   SG-1000
・10  ツクダオリジナルからオセロマルチビジョンFG-2000
・11/2 FC F1レース
・11/8 FCゼビウス127万本
・11/30 FCエキサイトバイク157万本

「ヒット」
ロードランナー110万本

ファミコン発売から半年、圧倒的な描画性能とソフトの面白さで任天堂は他社のゲーム機を駆逐して行きます。しかし他メーカーがファミコンに白旗を揚げた訳ではありませんでした。エポック社NECと組んで「スーパーカセットビジョン」を、セガもSG1000でファミコンに負けたとはいえ、売り上げ自体は予想以上だった為に後継機「SG1000Ⅱ」を発売します。

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スーパーカセットビジョン」¥14800
先代のカセットビジョンとその後の競合機との性能差を覆す為にNECと共同開発。当時据え置き機としては珍しいRGB出力や合成音声、バックアップカートリッジ等先進的な機能が採用され、ファミコンが売れ過ぎて品薄状態だった事も手伝って初年度は売り上げを伸ばします。

しかし、翌1985年のファミコンスーパーマリオ」の大ヒットとセがの「セガ・マークⅢ」が発売されて発売から1年で性能も上回られソフト・ハード共に劣勢に。と言っても「ドラえもん」や「ドラゴンボール」等の人気キャラタイトルや、パソコンゲームで定評があった日本ファルコムやアーケードで黄金時代真っ只中だったナムコからライセンスを受けてソフトを提供したりと、決して悪い布陣ではありませんでした。

しかしゲーム開発を本職とするサードパーティ参入を認めなかったこと、そして当時90%以上の市場を制覇していた上に今でも業界の象徴として君臨する任天堂の「ひげ」の登場とぶつかった上に、この年からサードパーティ制度を導入した任天堂と商用TVゲーム黎明期からアーケードで豊富なタイトルを持つセガの牙城は崩せず、対応30タイトルで本体累計30万台を販売して順位では任天堂セガに続く3番手ではありましたが、エポック社はこのハードを最後に家庭用TVゲーム機市場から撤退します。

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「SG1000Ⅱ」¥15000
CSKグループの資本参加によりCSKグループとなったセガから据え置き機「SG1000」のマイナーチェンジとして発売。本体デザインの変更と、ファミコンにならってジョイパッドを2個標準で付けた以外はSG1000と同じ。別売りのキーボード「SK-1100」¥13800を接続してパソコン機能も追加出来ました。

任天堂も当時流行していた「ゲーム機+パソコン」の流れでファミコン外部接続機器「ファミリーベーシック」を発売します。

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名前の通り「ファミコン用ベーシック言語」の開発を他社と進めてそれを売りにしたのですが、この独自言語の開発で組んだメーカー「ハドソン」が、後にファミコン初のサードパーティとしてファミコン本体の売り上げに大きく貢献する事になります。

ハドソンは当時PC用ゲームで数々のヒットタイトルを持つ全国的なシェア(70%以上)を持ったメーカーでした。そこに任天堂からファミコンがらみの話をもらったのですから「ウチのタイトルをファミコンソフトに移植しよう」 と思うのは当然の流れです。

という訳でハドソンは「ロードランナー」と「ナッツ&ミルク」というゲームのファミコン発売許可を任天堂に申請しますが、任天堂から出された条件が「最低製造数30万本で1本に付き製造料2千円」でした。

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6億の先行投資という危険な挑戦でしたが、同年7月31日に発売したロードランナーは当時のファミコン本体販売台数と同等以上の150万本という大ヒットを記録してしまいます。(ロードランナーは元々ブローダーバンドという海外メーカーがパソコン「AppleⅡ」用に開発したタイトルです。他に同社の「バンゲリングベイ」と「チョップリフター」の3タイトルを合わせて「バンゲリング帝国3部作」と呼ばれています)

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9月には黄金時代真っ盛りのナムコがアーケードのヒット作「ギャラクシアン」を引っさげて参入、年末には「ゼビウス」を完璧にファミコンに移植して発売してしまいます。(家庭用ならではの無敵裏技付き)ゲームセンターで大ブームを巻き起こしたゼビウスが家で遊べるという衝撃は大きく、ゲームセンターでやりこんだ人達はもちろん初めて触れた人達にも大ヒットとなってファミコンの売り上げを一気に押し上げます。

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PCゲームトップメーカーのハドソンとアーケードゲームトップメーカーのナムコというこれ以上ない強力なサードパーティ(本体メーカーとユーザーの2者間に対する第3者メーカー)を得てファミコンはその人気を確固たるものにします。更に翌年はコナミタイトーカプコンジャレコファミコンに参入します。任天堂はこの最初期パーティ6社に

・年間製造タイトル制限なし
・ROMカセットを各社の工場で製造OK

という優遇措置を取って各社のヒットタイトルを続々と移植させます。こうして発売からわずか1年でファミコンは他社ゲーム機を蹴散らして家庭用TVゲーム市場のトップに立ちます。しかし当時困った問題が起きていました。

今後は音や絵の品質向上が確実だが高品質の音や絵はメモリを食う。ファミコンのROMカセットは最大256Kbit(32KByte)で容量不足になるのは確実。更に当時パソコンが売れ始めてゲーム用半導体を作ってくれる工場は少なく(パソコン用のチップを作った方が儲かるので)半導体不足でコストも高くなる一方・・・そこで任天堂はROMカセットの容量不足を補う為に大容量でデータを書き換えられる磁気ディスクを用いたファミコン拡張機器の開発を始めます。

今後のタイトルは全て磁気ディスク媒体で発売する方針が決まる中、宮本氏は「ファミコンのゲーム開発で得た技術や演出を全て使ってROMカセット最後のタイトルにふさわしいゲームを作ろう」と考えます。こうして翌年、家庭用TVゲーム史上空前のブームを巻き起こすタイトルが発売されます。

「参考資料」
任天堂公式ホームページ 「社長が訊くスーパーマリオ25周年」
任天堂公式ホームページ 「ディスクシステムの生みの親 上村氏インタビュー」

1984年の主な出来事(大卒初任給  約135,800円)

『一般』
・米アップルコンピュータマッキントッシュを発表
・植村直巳が冬季マッキンリーの単独登頂に成功後行方不明
東京ディズニーランドが開園わずか1年で来場者数1000万人を突破
・グリコ森永事件
・インド首相のガンジー暗殺
報徳会病院事件(看護婦が患者をリンチ死、医師は患者の生活費を着服)
ドラゴンボール週刊少年ジャンプで連載開始
小堺一機の公開生番組 「ライオンのいただきます」 スタート。
 フジテレビの「笑っていいとも」と並びお昼番組の定番に

『ゲーム業界』
ファミコン初のサードパーティタイトル 「ナッツ&ミルク」 がハドソンから発売。
 その後続々とサードパーティが参入、ファミコン人気は更に加速

『ヒット曲』
・もしも明日が、涙のリクエスト、ワインレッドの心、悲しくてジェラシー、十戒
 北ウィング、娘よ、Rock’nRouge、星屑のステージ、星空のディスタンス

『流行語』
・まるきん、まるび、疑惑、オシンドローム、くれない族、特殊浴場、教官!、鈴虫発言

『この年生まれた有名人』
土屋アンナベッキー香里奈里田まい水嶋ヒロ伊調馨鬼龍院翔
 長谷部誠速水もこみち生田斗真錦戸亮

『テレビ・アニメ』
風の谷のナウシカ    ・重戦機エルガイム    ・とんがり帽子のメモル
ガラスの仮面       ・魔法の妖精ペルシャ  ・名探偵ホームズ
夢戦士ウイングマン   ・オヨネコぶーにゃん   ・巨神ゴーグ
北斗の拳         ・ビデオ戦士レザリオン  ・ゴッドマジンガー

1983年(昭和58年):アタリショックと赤白の家庭用ゲーム機

・3/25 バンダイからアルカディア
・5/10 アタリからアタリ2800
・7/15 ファミコン
・7/15 セガからSG1000
・7・15 セガからSC3000
・7/19 カセットビジョンJr
・10/中旬 カシオからカシオコンピュータゲームPV-1000
・11中旬 ツクダオリジナルからオセロマルチビジョンFG-1000

「ヒットタイトル」

・FCベースボール   235万本
・FC麻雀       213万本
・FCマリオブラザーズ 163万本


■3度目のドンキーコング、そして大工から配管工へ
1983年に宮本氏は「マリオvsコング」の図式を無くしてそれぞれが主人公のゲームを制作します。コングが主人公のゲームは「ドンキーコング3」と呼ばれ、ドンキーコングからドンキーコングJrになって全く違うゲームになった様にこの「3」も全く別のゲームになります。このゲームではマリオの代わりにスタンリーという主人公がコングと対決します。

しかしキャラこそドンキーコングでしたが、ゲームシステム自体は1980年に任天堂が発売したシューティングゲーム「スペースファイアバード」と「レーダースコープ」の特徴を継承したもので、正直「ドンキーコング3」というタイトルに名前負けした印象でした。

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そしてもう一方のマリオが主人公となるゲームですが、宮本氏はこの時知人に「マリオってやってる事はまるで配管工じゃないか?」 と指摘を受けたそうです。そこで 「マリオが配管工のゲーム…?」 と考えます。

後に「マリオブラザーズ」と呼ばれるこのゲームで、マリオに兄弟「ルイージ」がいる事が発覚します。この兄とほぼ同じ風貌を持つ弟の名前ですが…

・NOA本拠地ワシントン州レドモンドにあるイタリア料理店『マリオ&ルイージ』から
・マリオの色違いという事で日本語の 「類似」 から
・映画「恐怖の報酬」に出て来る主人公マリオとその友人ルイージから

・・・と諸説ありますが、任天堂公式サイトでは『類似から?!』と書かれています。(?!が付いて他説も否定していないので真相は不明)そしてタイトルですが、困った事に 「マリオ」 が名字になってしまったのです。マリオが名字だとすると名前は・・・やっぱりマリオです。なのでマリオの本名は「マリオ・マリオ」になりました。

続いてゲーム画面ですが、これは米ウィリアムズ社が出した「ジャウスト」というゲームが元になっています。(バルーンファイトの元にもなっています)

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システムはジャウストの様に空中をフワフワ飛ぶのではなくジャンプで足場を移動して土管から出て来る敵を下のフロアからパンチでひっくり返して蹴飛ばして退治するという内容でした。

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そしてこの頃、念願だった「ポパイ」の版権が取れた事から業務用ゲームを制作します。

アタリショック
NOAが着実にアメリカ市場での地位を確立して行く中、なんとそのアメリカTVゲーム市場がこの年に崩壊してしまいます。原因は業界トップのアタリ社が出した家庭用TVゲーム機 「VCSシリーズ」のゲームに粗悪品が相次ぎ、ユーザーの怒りが爆発した為です。

そしてなぜ粗悪品が氾濫したのかと言えば、アタリ社の親会社であるワーナー社が「ロイヤリティさえ払ってくれればサードパーティは拒みません」と言ってゲームの内容を全くチェックせずにどんどんVCS用カセットとして製造を許可してしまったからです。

おかげでTVゲームバブルの甘い汁を吸おうとゲームを全く作る気の無いメーカーが他社タイトルをちょっと改変しただけの物やまともに動作しない物を次々と新製品として発売してしまいました。(ワーナー社も自社ソフト「E.T」 の何百万本もの売れ残りをばれない様に穴を掘ってコンクリートで埋め立てて2014年に発掘された記録が残っています)

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インターネットやTVゲーム情報誌等が無かった当時はパッケージを見て内容を推測するしか無く、他社ソフトの模倣ならまだしもまともに動作するか分からない商品ばかりショーケースに並んだのでは売れる訳もありません。

1982年末のクリスマス商戦から売り上げは下降の一途を辿り、翌年に完全に市場が「停止」 します。

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一応この年、アタリ社のVCSは本格的な日本進出を果たしています。『アメリカのトップメーカーがとうとう日本に』と国産メーカーは黒船の来航に戦々恐々としていました。しかし日本ユーザーからそっぽを向かれる事になります。国内メーカーのTVゲーム機と比べて画像・音・システム全てで見劣りする物だったからです。(ファミコン発売の年に来た時点でタイミングも悪過ぎました)
セガ初の家庭用TVゲーム機

1977年の第1次組み立てTVゲーム機から久しぶりの第2次TVゲームブームとなったこの年、家庭用・業務用そしてホビーパソコンと様々な機種が発売されています。この年の話題はなんと言っても某任天堂から発売される赤と白のおめでたい色の家庭用ゲーム機ですが、セガから「SC-3000」(¥29800)というゲームパソコンと「SG-1000」(¥15000)というゲーム専用機が発売されます。(SCはSega_Computer、SGはSega_Gameの略でSG1000はSC3000からキーボードを除いただけでした)

ファミコンと発売日を同じにするなどライバル意識満々でしたがファミコンに大敗北を喫します。(初年度販売台数はファミコンの300万台に比べ15万台。実はファミコンに張り合いたいだけでSC3000からキーボードを外してSG1000として売ったという話もありますが不明です)
とはいえセガは当初販売台数を5万台前後と予想しており、予想の3倍売れた事でその後も継続して家庭用TVゲーム市場に参入して行きます。

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■常識を覆すシューティングゲーム

この年、ナムコから業務用に1981年から開発していたシューティングゲームが発売されます。この業界初の縦スクロールシューティングは1981年にコナミが発売した横スクロールシューティング「スクランブル」の対空・対地上用に弾を撃ち分けるシステムを参考にしたもので、ベトナム戦争をモチーフにした「シャイアン」というタイトルで開発していました。しかし開発スタッフの激しい入れ替わり等でプロジェクトは崩壊寸前に。

「続き、やる?」
1981年ナムコ新入社員の遠藤雅信氏は上司の問いに
「やっていいならやりますよ」

こうしてシステムプログラムを担当する深谷正一氏を始めとする遠藤氏を含めた5~6人のチームで引き継ぎます。しかしこの時遠藤氏は全くのプログラム未経験者でまずプログラムの勉強から始めたそうです。(プログラムは1ヶ月程で習得したそうです)

このゲームのシステムプログラムを担当していた深谷正一(ふかたにしょういち)氏はナムコ黎明期を支えた天才と呼ばれるプログラマーで、ナムコ社内で遠藤氏を始めとする多くのプログラマーを育成された方として知られています。

ちなみに1980年代はナムコ黄金時代と呼ばれ、ヒット作を連発してユーザーから絶大な支持を受けます。そしてそんなヒット作の開発に数多く携わった深谷氏は黄金時代真っただ中の1985年に31歳の若さで亡くなってしまいます。

人望の厚い深谷氏の死を悼み、この頃発売されたいくつかのタイトルには氏へのメッセージが込められています。当時深谷氏のチームが開発していた源平討魔伝をプレイしてエンディングを見て「誰だろう?」となった人も多いのではないでしょうか?

「エンディングに深谷氏へメッセージが入っているタイトル」

 ■モトス(1985年9月)
 SPECIAL THANKS TO CHIEF FUKATANI

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 イシターの復活(1986年7月)
 THIS GAME DEDICATED TO OUR MASTER THE LATE Mr. SHOUICHI “GOD” FUKATANI

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 源平討魔伝(1986年10月)
 神様は死んだ 悪魔は去った (中略) 神も悪魔も降り立たぬ荒野に我々はいる 故 深谷正一氏にささぐ。

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 ドラゴンスピリット(1987年6月)
 SPECIAL THANKS TO THE LATE Mr. SHOUICHI “CHIEF” FUKATANI

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話を遠藤氏に戻しましょう。「期待されていなかったから好きにやれた」と後に遠藤氏がインタビューで話している通り、独自の発想によってゲームは当初予定の内容から大きく姿を変え、それまでインベーダーの影響を色濃く受けたものばかりだった当時のシューティングゲームの常識も塗り替えます。

「敵キャラが並んでプレイヤーにやられるのを待っているのは変だ」まず遠藤氏は社会現象になった「スペースインベーダー」を始めとする「的の様に並ぶブロック崩しを模した敵」を否定する所から始めます。

「はじめにこういう敵が出てくる。次はこういうつながりでこの敵が出て来る」そして遠藤氏はプログラミングの前に敵キャラ(兵器)がどう進化して何を目的にどう開発されていったのか、という「敵兵器の歴史」を考えていったそうです。更に独自の発想を元に世界観を徹底的に作り込んで行きます。

・ゲーム世界用の言語を考案
・シューティングの背景といえば真っ黒い宇宙が当たり前→どこまでも緑が続く大地
・敵だってやられたくない→逃げたっていいはず

このゲームは2つのボタンを使って対空・対地用の武器を使い分けるシステムだった為、地上弾で敵を狙いやすくする照準が付いていました。地上の敵と照準が重なると照準の色が変わる 「ロックオン」 の様なシステムを考えていた遠藤氏は、敵が隠れていても照準の色が変わればそこに敵がいるという索敵(隠れている敵を探す)を考えます。

「索敵が出来るなら見えない敵がいてもいい。でも見えないままじゃどんな敵だったのか分からないから出てくる」そんな敵を考えます。これが後のゲーム業界に大きな影響を与える「隠れキャラ」の元祖と言われるのですが、社内での意見は真っ二つだったそうで特に上司は「標的を撃つ事に爽快感があるのに隠してどうする」とシューティングどころか従来のTVゲームの常識を覆す仕様に懸念を示し、遠藤氏に仕様の削除を命じたそうです。

しかし遠藤氏はこの指示を「どうせ見えてないし」と華麗に無視したそうで、その後の直ってないぞという上司の指摘にも「あーまだ直ってないすかーすみません」とシラを切り通したとか。しばらくするとデバッグチームが「ここにもあったぞ」と隠れキャラを探すのに夢中になり始めて 「キャラ探しって面白いんじゃない?」 という雰囲気になったそうです。

「面白いのは分かったからいくつ埋まってるのかレポートを出してくれ」ついに上司も仕様を承認、当時の戦争物から神秘的な世界観に変わったゲームはタイトルもゼビウスと名を変えて1983年に発売されます。

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ゲームセンターに登場すると、背景がお決まりの黒い宇宙では無いどこまでも続く美しい大地が目を惹き、意思を持つかの様な敵の洗練された動きと統一された独特の世界観が話題になります。そして何より、偶然出現させたユーザーが「なんだこれは!?」とこれまでにない「隠しキャラ」に驚愕し、その出現場所や実際には存在しない嘘の仕様までが全国のゲームセンターから口コミで飛び回ります。

「作りこまれた世界観とどこまであるのか分からない隠しキャラ」ユーザーの想像力を刺激しまくるこの仕様によって空前の人気ゲームになると共にネットが普及していない当時では貴重な情報源だった出現場所や攻略法を同人誌で紹介して1万部以上を売るサークルなど、全国的な知名度を持つゲーマー集団が現れ始めます。

そして、そんなゼビウス攻略本を出版するゲーマーサークル達の中にゲームフリークというサークルがありました。

■開発コード「GAMECOM」(ガメコム)

「TVゲーム6」や「15」以来となる任天堂の家庭用TVゲーム機がいよいよこの年に発売されます。1983年、ゲーム&ウォッチの制作で提携したシャープから引き抜きで任天堂に来た上村雅之氏に山内社長が1981年に指示してから丸2年が経過していました。

まず本体の性能に直結するCPU(中央演算処理装置)とPPU(画像処理装置)のICチップ開発に乗り出します。上村氏はかつてゲーム&ウォッチを共同開発し、自分が勤務していたシャープに話を持って行こうとしましたが山内社長が出した条件は・・・・

 ・本体内蔵型でなくカートリッジ交換型
 ・ゲーム&ウォッチ製造に影響が出るのでシャープ使用禁止
 ・定価1万円以下
 ・少なくとも他社が3年は対応出来ない性能
 ・発売は1年後の1982年夏

正直、かなり無茶な要求でした。当時はパソコン需要が個人・企業共に急速に拡大傾向で生産ラインが空いている工場はなく、更に任天堂の性能・価格共に無茶な要求を聞くメーカーはありませんでした。

山内社長から指示を受けてから約2ヶ月。チップを設計・製造してくれる工場を探しているとリコーから「工場を作ったんだが誰も使ってくれずにラインがほとんど稼働していない。任天堂さんで使えないか見に来て欲しい」と連絡が入ります。当時リコーは1980年に半導体事業に参入した新規参入社で、1981年に工場を完成させましたが実績不足から取引相手が見つからなかったそうです。

上村氏が工場を見に行くと工場の稼働率はなんと1割ほど。そしてここで幸運な偶然が起こります。以前任天堂が初の家庭用TVゲーム「TVゲーム6」と「15」を三菱電機と共同開発した際、その専用LSIを開発した技術者の入木広満氏がなんと三菱からリコーに転職していたのです。上村氏が入木氏に事情を説明すると 「ぜひやりましょう」 という事に。ここで上村氏が放った一言。

ドンキーコングが動くものを作れますか?」

この言葉の意味は

「多くの電子部品を搭載した業務用基盤で稼動していたドンキーコングを動かせるワンチップICを作れますか?」

という意味です。山内社長に負けない無茶要求っぷりです。しかし、逆にこの一言が稼働率の低い工場で何かに飢えていたリコーの技術者さん達を奮起させます。

ドンキーコングを家に持って帰るぞ!!」

こんな経緯から上村氏はリコーの技術者さん達と一緒に山内社長の無茶要求と闘い始めます。(リコーの技術者さん達がゲーム好きだったのは言うまでもありません)当時他社のTVゲーム機に搭載されていたICチップはザイログ社の「Z80」が多く、任天堂も当初はZ80を採用する考えでした。しかしリコーがライセンスを持っていたCPU 「6502」 をベースチップに決定します。6502を採用した理由として

Z80に比べてチップの大きさを4分の1に出来た
・国内で6502は当時あまり知られておらず、他社に構造を解析される時間を稼げた
 (山内社長の 「3年は追随されないもの」 という要求の実現)

 

等があったそうです。そして無茶な仕様要求の上に任天堂はこのチップのコストを1個2千円という破格値でリコーに打診したそうです。これにはさすがにリコーも 「必ず売れる保証の無いチップをそんな安値で作ったのでは…」と難色を示します。

しかし任天堂の「2年間で300万個必ず購入するからお願い!!」というこれまた破格な仕入れ数を提示して要求を通します。(後に山内社長がそんな事言っていないと否定したというコメントもあり)チップの仕様が決まって次は本体の仕様ですが

 ・パソコンとの差別化を明確にする為にキーボード排除
 ・コントローラはゲーム&ウォッチで採用した十字キー → 子供が誤って足で踏んづけても怪我をしないのとコスト面からジョイスティックは却下
 ・本体のプラスチックの色は山内社長が自分の赤いマフラーを上村氏の所にわざわざ
  持って来て「この色がいい」と指示したため。赤は値段も安かったので決定
 ・コントローラーは2つ装備して本体に収納
 ・コスト削減の為にコントローラは本体に直付け→ 当初は本体前面にコネクタを用意してコントローラを接続する予定だった為にケーブルは本体内部の前面から後部までぐるっと迂回する事に
 ・カートリッジは磁気カセットテープと同じ大きさ→ オーディオカセットケースの需要も期待したが結局1回り大きいサイズに
 ・「TVから自分の声が聞こえてきたら面白いのでは?」上村氏の発案でコントローラⅡにマイク機能→ あまり受けず
 ・コントローラ接続端子は無くしたが、ゲームセンター気分で遊べるオプションのジョイスティック接続用に15ピン端子を装備

当時多くのゲーム機で採用されていたジョイスティックでは無く、横井氏がゲーム&ウォッチ開発時に考案した十字キーの採用やボタンを2つ配置する事には社内からの反発も強かったそうです。

「このあたりからこれまでゲームを作っていた人とこれからゲームを作る人の間で葛藤が始まった」と後に宮本氏は2005年に開催された国際シンポジウム「インタラクティブ・エンタテインメントの歴史と展望」の中で発言しています。

「性能の向上は惜しまず、それ以外のコストは削る」上記の経緯を経て本体が製作されました。しかしコストは削っても性能面、特にグラフィクス能力は妥協しませんでした。デザイナーの宮本氏をはじめ、開発現場のクリエイター達がチップ開発に参加、色数やスプライト枚数等をハード・ソフト双方の技術者で話し合い、作り易く使い易いチップに調整しました。


…と書けば終わりなのですが、特にチップはマイナーな6502を使うという事でとにかく資料が無く、専用LSI開発と並行してそのチップで開発する為のツール作りも1から行う必要があったそうです。ゲーム開発が困難で進まないそんな状況の中、発売年の1983年に救世主が現れます。新入社員の加藤周平氏が大学時代にジャンク屋で購入した基盤の改造経験から6502の構造を熟知していたのです。

加藤氏は入社して新人研修を受けるどころか、経験豊富な開発スタッフに6502の構造を講義する立場となり、一気に開発スピードが向上したそうです。当時宮本氏はファミコン用ソフト「デビルワールド」を開発中でした。ちなみにこのタイトルは北米では発売されていません。

当時北米ではゲーム否定派がTVゲームを悪魔呼ばわりしており、十字架と聖書を持ったドラゴンが地獄に行って悪魔を退治するゲームは危険と判断されたからです。(デビルワールド制作後はアイスクライマーエキサイトバイクを監修)そして7月15日、ついに「ファミリーコンピュータ」は発売されます。(「ファミリーコンピュータ」 の名付け親は上村氏の奥様だったそうです)

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当時『業務用ゲームを家庭用に移植する』と言えば業務用と見劣りする部分を「家庭用だし仕方ないよな」とあきらめながら脳内補完でプレイするのが当然でした。しかし業務用で大人気だったドンキーコングを完璧に移植したのです。価格も¥14800と従来家庭用機とほぼ同じかそれ以下でした。(ロンチタイトルはドンキーコングドンキーコングJr、ポパイの3つ)

じつはこの頃は多くのメーカーが家庭用ゲーム機を販売しており、ファミコンは 「第二次テレビゲームブーム」 に乗り遅れてゲーム機市場に参入した後発組でした。

そんな激戦の中でも業界トップになれたのは、とにかくソフトの面白さでした。CMを見てそれが家で出来る家庭用TVゲーム機だと分かると子供達はおもちゃ屋に殺到します。(CMも他社が人気タレントを使う所を手だけの出演にしてプレイ画面を流すのみ。「画面を見れば分かるだろう」 と言わんばかりの任天堂の自信が伺えます。)

しかし最も注目が集まる発売直後が命と言われる家庭用TVゲーム機において致命的な「不具合」がPPU(画像処理プロセッサ)で発見されます。任天堂は流通している全てのファミコンを回収・無償修理するという膨大なコストが掛かるリコールを即時に決断、実行します。

不良のチップだけでなく内部基盤を全て交換したそうです。以降も修理で送られて来たファミコンカセットを交換した際にカセットに貼られていた名前シールをわざわざ交換後のカセットに貼り直して返送するなど、任天堂のユーザーサポートは現在でも高く評価されています。

出荷は止まり、クリスマス商戦を棒に振りますが流通業者からその迅速な対応が評価され、更に年が明けると「子供達が殺到してすごい売れ行きだ」と問屋からうれしい知らせが入ります。

結果としてファミコンは発売から1年で約300万台を売り上げました。このファミコン発売からの1年間、任天堂は自社製ゲームタイトルのみを発売してヒットを連発、人気を不動のものにしています。品質管理が十分に出来ない中でサードパーティを参入させてつまらないゲームが発売されてファミコンアタリショックの二の舞になる事を憂慮した為です。

そして実はこの1年間、前述したCPU(6502カスタムチップ)の複雑な構造に任天堂ゲーム開発陣が手間取り、後続のタイトルが中々発売出来ないピンチな状況でした。そこに1980年に設立された「HAL研究所」というゲームメーカーに入社して2年目という若者がファミコンでゲーム作る仕事ください」と突然訪ねて来ます。

ライバルメーカーの多くがまだファミコンに6502ベースのチップが使われている事すら突きとめられていなかった当時、その若者はファミコンが6502を使っている事を知っていたばかりか6502の構造も熟知していました。

そして任天堂の開発陣さえ知らない仕様を解説し始めた上に、開発スタッフも驚くプログラミング技術で難航する新作タイトルの開発を一気に推し進めてしまったそうです。任天堂の開発者をも凌駕する知識を持つ若者は、名を岩田聡と言いました。

そしてそんな自社タイトルのみで売り上げを伸ばす中、その後もファミコン人気を継続する為に任天堂サードパーティ制度を整備して行きます。

任天堂の販売戦略

前述の通り、この年アメリカは 『アタリショック』 によってゲーム市場が崩壊しました。そしてそれを目の当たりにしていた任天堂は 『防衛策の必要性』 を強く感じていました。ファミコン発売当初はこうした防護策がなかった事から、1983年の発売から1年間任天堂サードパーティなしの自社タイトルだけでファミコン人気を定着させます。そしてその後もファミコン人気を継続させ、更にコピーソフトの氾濫を防ぐビジネスモデルとして1986年までに以下のラインセンス契約制度を取り決めます。

 ・ソフトメーカーはファミコン任天堂の著作物である事を認める
 ・ファミコンソフトの発売には任天堂の許諾を必要とする
 ・商標や販売ノウハウの提供に対して任天堂に対価を支払う
 ・ソフトメーカーが年間に発売出来るタイトル数を任天堂が決める
 (新規で実績の無いメーカーは年間3タイトルまで)

任天堂ファミコンカセット用の生産工場も自分で準備、ゲームカセットを自社で量産して完成品をソフトメーカーに納品しました。ソフトメーカーは自分で生産ラインを組まなくて済み、任天堂は製造手数料をロイヤリティに上乗せ出来ます。対してソフトメーカーはカセットを作ってもらわなければどうしようもないのですから製造費は任天堂の言い値で払う事になります。

さらに年間リリースタイトル数も制限した事で、適当なゲームソフトを発売して貴重なリリース枠を無駄に消費させない様に、慎重に時間を掛けてゲームを制作させる様にしたのです。

この様に任天堂は粗悪ソフトの製造を防ぎ、そして
『うちのファミコンでゲームを作っていいよ』という許可を出してソフト1本につきいくらか(当時2千円前後)の利益が入って来るロイヤリティ販売システムを確立します。(初期販売本数が30万本なら、その後作ったROMカセットが売れる売れないに関わらず任天堂は30万本×2000円で6億円の収入が確定します)

しかしファミコン最初期に参入表明したサードパーティの中で、特にアーケード等でヒットタイトルを持つメーカーには特別待遇としてこの制限を設けませんでした。
(ハドソン、ナムココナミジャレコタイトーなど)

こうして品質対策と利益確保の環境を整えた任天堂は、その後サードパーティを増やしてファミコンブームの幕が開けて行きます。

(参考資料)
・それは 「ポン」 から始まった
・ボクがゼビウスを作った理由
ニンテンドーイン・アメリカ
京都大学経済学会 「経済論叢」
・「日経エレクトロニクス」1995年1月16日号「ファミコン開発物語」
任天堂公式ホームページ 「社長が訊く『スーパーマリオ25周年』」

■1983年の主な出来事 (大卒初任給 約132,200円)

『一般』

東京ディズニーランド開園 (開園から1ヶ月で来場人数500万人を突破)
・領空侵犯した大韓航空機がソ連攻撃機に撃墜 (乗客約270名全員死亡)
・夏の全国高校野球大会で桑田真澄が史上初の1年生優勝投手に
アメリカの人気歌手カレン・カーペンターが心不全で32歳で死去
参議院選挙の全国区で初めて比例代表制が導入
・日本初の体外受精児誕生
劇団四季のミュージカル「キャッツ」が新宿キャッツシアターで始まる
中国自動車道全面開通
NHK連続テレビ小説おしん」が視聴率62.9%を記録
プロ野球阪急ブレーブス福本豊が939盗塁の世界新記録達成
・三宅島噴火
・雛見沢で大災害発生 (ひぐらしのなく頃に

『ヒット曲』
矢切の渡し、め組のひと、初恋、めだかの兄弟、さざんかの宿、氷雨

『ヒット商品』
ファミリーコンピュータキン肉マン消しゴム、家庭用アイス製造機どんびえ
 ワープロ書院、防虫剤ゴン、ポケットテレビ、石鹸入浴剤バブ

『流行語』
・いいとも!、ロンヤス、頭がウニになる、義理チョコ

『この年生まれた有名人』
阿澄佳奈井ノ上奈々加藤英美里鹿野優以清水香里前田愛

『テレビ・アニメ』
聖戦士ダンバイン   ・装甲騎兵ボトムズ     ・キン肉マン
・プラレス三四郎    ・魔法の天使クリィミーマミ ・キャッツアイ
キャプテン翼     ・光速電神アルべガス    ・スプーンおばさん
銀河疾風サスライガー ・銀河漂流バイファム    ・超時空世紀オーガス

1982年(昭和57年):ドンキーコング裁判とエニックスのゲームコンテスト

ドンキーコングの続編

任天堂では前年業務用で発売されて大ヒットとなった「ドンキーコング」の続編の制作を決定します。担当はもちろん宮本茂氏です。普通続編と言えば主人公は同じ「マリオ」となりますが、宮本氏はここで主要キャラ「コング・ポリーン・マリオ」3者の役回りをがらっと変える決断をします。

ドンキーコングを主人公にしたらどうか?しかし当時のハード性能ではコングの様な大きなキャラクタは動かせませんでした。前回の悪役でなく、かと言って主人公にもなれないなら…コングはさらわれたヒロインになりました。

ヒロインの枠が埋まり、主人公だったマリオは前作の復讐でコングを捕らえた敵役。残った主人公の枠はコングの息子に。前作の主人公を敵役にするという思い切った配役に周囲は困惑します。

しかし宮本氏は配役だけで奇をてらうのではなく、レバーとボタン1つの操作系でジャンプやツタの登り降り(登る時は2本、降りる時は1本で素早く移動)等のバラエティに富んだアクションを提供して敵キャラや攻撃アイテムの動きにも工夫を凝らします。

そして1982年に「ドンキーコングJr.」は発売。衝撃的な配役でしたが、ゲーム内容が前作とは全くの別物だったのでユーザーにも「名前はドンキーコングだけどこれは別のゲームだ」と認識されて前作のイメージダウンに繋がる事なく、普通にヒット作となります。

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順調な滑り出しでしたが、この頃アメリカでは前作のドンキーコングが裁判に掛けられようとしていました。

ドンキーコング vs キングコング

この年、アメリカ大手映画会社のユニバーサル社が『ドンキーコングは我が社が作った映画「キングコング」のキャラクターを不法使用している』と訴えます。ちなみにユニバーサルは任天堂から許諾を受けたコレコ社にも「ドンキーコングを同梱したコレコビジョンを販売したら訴える」と脅しを掛けます。コレコ社は争う事なく要求に応じ、売り上げの3%(約500万ドル)の支払いに応じます。

任天堂も当初はコレコ社と同じく事を荒立てずに要求を飲むつもりでしたが、NOA弁護士ハワード・リンカーン氏の「反訴出来る」という説得に応じて争う決意をします。任天堂は「市場には他にもキングコングの未許諾商品がたくさんあるのにユニバーサルは許諾料を要求していない。その中で任天堂に言いがかりをつけて来たのは単に任天堂の金目当てだ」と争う姿勢を見せます。

ユニバーサルは直接交渉で任天堂が陥落しないと見るや周囲の状況を変化させようとします。任天堂が「ドンキーコング」をライセンス供与した6社を訴えたのです。任天堂ほど資産のない小さな会社は早々にユニバーサル社の要求を飲み、降伏します。しかしこうした外堀から埋めて行くユニバーサル社の攻勢に対しても任天堂は屈せず法廷闘争に持ち込みます。

NOA弁護士ハワード・リンカーンは法廷闘争の為に敏腕弁護士を雇い、準備を開始します。そしてその敏腕弁護士の名前は「ジョン・カービィ」と言いました。

■火の7日間

ユニバーサルと任天堂の法廷での闘いは7日間に及んだそうです。相変わらず金の支払いを要求するユニバーサル社に対してカービィ氏は映画とゲームとの違いをあらゆる手段を使って説明します。

そして任天堂側には切り札がありました。ユニバーサル社は1975年に最初にキングコングに映画を制作したRKO社を訴えた事がありました。そしてその際、「1933年に制作されたRKO社の映画『キングコング』は著作権の保護期限を過ぎているので、我々はRKO社に対して一切の許諾料無しにキングコングの映画を作る事が出来る」「キングコングは誰も所有出来ない物」だとユニバーサル社自身が過去に主張して勝訴していたのです。

つまりキングコングが誰の所有物でない事を知りながら任天堂を含めたいくつもの企業に訴訟を起こした訳です。その点で判事は激しくユニバーサル社を責め、

 ・ユニバーサル社はそもそもキングコング著作権を所有していない
 ・ドンキーコングキングコングのコピーではない
 ・仮にコピーだったとしても 「パロディ」 と考えられ合法

以上の点からユニバーサル社が告訴してロイヤリティを支払った各社に対して同額+慰謝料を支払う様に命じたのです。そればかりかユニバーサル社が携帯ゲーム機用にタイガーという会社に独占ライセンスを供与して作られた「キングコング」ゲームこそ「ドンキーコングのコピー」であると認めたのです。

ユニバーサルは判決を不服として反訴し、この裁判は数年続きます。結果としてユニバーサルは全訴訟について敗訴、任天堂の訴訟費用約200万ドルを負担する事になります。

■裁判から生まれた人気キャラ

任天堂を圧勝に導いたNOAの弁護士ハワード・リンカーン氏はNOA副社長に抜擢され、後に会長職まで拝します。そして法廷弁護士として闘ったジョン・カービィ氏にはNOAから「ドンキーコング号」という名のヨットが贈られました。そのヨットには「ヨットにドンキーコングという名を使える全世界独占権」が与えられたそうです。

1992年、丸くてピンクでなんでも吸い込むキャラが主人公のゲームが任天堂から発売されます。彼の名はそのゲームの主人公として、当時裁判に関わった者だけでなく世界中のプレイヤーに広く知られています。

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■「ゲームパソコン」の隆盛

実は1980年代に入ってからパーソナルコンピュータの売り上げが順調に伸びており、ゲームユーザー層との重なりもあっていわゆる『ゲーム機能付きパソコン』 とも言える家庭用ゲーム機この頃から登場し、この頃ゲーム市場にも影響を与え始めていました。

「この頃に発売された家庭用TVゲーム」
(※このころアメリカではアタリショックでゲーム市場壊滅、終了)

・インテレビジョン(家庭用 バンダイ
・オデッセイ2(家庭用 北米フィリップス社)
ぴゅう太(トミー工業)
・M5(ゲームパソコン ソード)
・ゲームパソコン(ゲームパソコン タカラ)
・マックスマシーン(家庭用 コモドール)
・ダイナビジョン(ヤマギワ電気)
アルカディア(家庭用 バンダイ
・アタリ2800(家庭用 アタリ)
ぴゅう太Jr(トミー工業)
・SC3000(家庭用 セガ
・SG1000(家庭用 セガ

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小中学生に取っても、これらのハードは『ゲーム機はゲームだけだけどパソコンなら勉強にも使えるから買って♪』と言って親にねだれる便利なハードでした。また 『マイコンBASICマガジン』、『Oh!PC』、『テクノポリス』、『LOGIN』などの専門誌がこの年に創刊されました。

エニックスによる人材発掘
この年、 株式会社エニックスは『ゲームホビープログラムコンテスト』 というイベントを開催しました。これは一般のクリエイターからゲーム作品を募集して優秀な作品を買い取って自社作品として販売するというイベントで、ゲームソフトは自社開発が基本だった当時、開発力を外部に求める画期的なイベントでした。

ちなみに最優秀賞は後に 『森田の将棋』 をヒットさせる森田和郎の『森田のバトルフィールド』、優秀プログラム賞には中村光一の『ドアドア』、入選プログラム賞には堀井雄二の 『ラブマッチテニス』 等があり、エニックスはこれらを商品化して行きます。

エニックスはこうした入賞者により良いゲームを作ってもらおうと1983年末にアメリカゲーム市場の見学ツアーを行います。当時アメリカはアタリショック直後で家庭用は壊滅状態でしたがPCゲーム市場では1980年にウルティマ、1981年にはウィザードリィ「ローグ」等の名作が発売されてRPGブームの真っ只中でした。

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アクション全盛だった日本には無い未知のジャンル「RPG」に衝撃を受けた中村・堀井両氏は「二人でこれを超えるゲームを作ろう」と決意、帰国後堀井氏はRPGの研究、中村氏は大学生ながら会社を設立して制作に取り掛かります。そして4年後の1986年、二人は家庭用TVゲーム機ファミコンで社会現象を起こすRPGを制作します。

1982年の主な出来事 (大卒初任給 約131,498円)

『一般』
植田まさしコボちゃんが読売新聞で連載開始
・フィリップス社が世界初のCDを発売 (ソニーもこの年CDプレイヤーを発売)
・500円硬貨発行、テレホンカード発売
中央自動車道全面開通
NECがPC9801シリーズを発売
・食中毒でおなじみの病原性大腸菌O-157」 発見
・フジテレビお昼の看板番組 『笑っていいとも』 スタート
心身症の機長が操縦する日航旅客機が着陸寸前で逆噴射、滑走路手前の海上
 墜落して24人死亡、150人が負傷(機長は心神喪失で不起訴)

『流行曲』
・待つわ、セーラー服と機関銃聖母たちのララバイ、心の色、北酒場、悪女
『この年に生まれた有名人』
吉井怜滝沢秀明仲根かすみ北島康介深田恭子、倖田くみ
大前茜、羽田野渉、白石涼子、本多瑛未里、桜木美里

『テレビ・アニメ』

・戦闘メカ ザブングル ・魔法のプリンセスミンキーモモ ・ゲームセンターあらし
超時空要塞マクロス   ・ときめきトゥナイト   銀河烈風バクシンガー
パタリロ        ・プロゴルファー猿    ・わが青春のアルカディア
逆転イッパツマン    ・スペースコブラ